切腹第1号は誰だったのか?意外な書物に綴られた”答え” 奈良時代の不思議な出来事 歴史学者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Wirestock/stock.adobe.com)
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 切腹は外国人からは「ハラキリ」(腹切り)と称して恐れられ、なぜそのようなことをするのか理解できないと言われる「日本独自の自殺行為」(大隈三好『切腹の歴史』雄山閣出版、1973年)です。平安時代以降、中世(平安後期〜戦国時代)、近世(江戸時代)を通して、武士の自決方法として切腹は行われてきました。よって、切腹は武士がするものというイメージが強いと思います。

 では、切腹の初見史料、第1号は一体、何で誰なのでしょうか。

 奈良時代の和銅6年(713)、朝廷は諸国に対し、地名の由来や物産・土地の状態、伝説などの国情を調査して報告書を提出せよとの命令を発します。諸国からは報告書が提出されましたが、その報告書のことを『風土記』といいます。

 現代に写本の形で伝来する風土記は『出雲国風土記』『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国風土記』『豊後国風土記』の5つです。その中の『播磨国風土記』賀毛郡(現在の兵庫県加西市や小野市)の条目に「腹辟沼」(はらさきぬま)という沼の名の由来が記されています。

 それによると、昔、花浪の神に妻がいた。その妻は淡海の神という。淡海の神は、夫(花浪の神)を追い、賀毛郡にまで至る。どのような理由かは分からぬが、淡海の神は夫に激しい恨みを抱いていた。怒りの余り、淡海の神は、川合里(現在の小野市)の沼にて、刀でもって自らの腹を裂き、亡くなったのである。

 よって、この沼は「腹辟沼」と名付けられた。その沼の鮒などには、今も「五臓」(はらわた)がないと『播磨国風土記』は記します。そこから推測するに、淡海の神は、単に割腹したわけではなく、五臓を掴み出して、亡くなったと思われます。五臓六腑を掴み取ってこれを掻き出すという戦国武将顔負けの切腹です。このような切腹は「無念腹」とも呼ばれますが、淡海の神の激しい怒りや恨みが伝わってきます。

 『播磨国風土記』の腹切りの逸話は、人ではなく、神にまつわるものですので、本当にあったことか否か分からないという人もいるでしょう。確かにそれはそうなのですが、しかし少なくとも切腹という行為が、風土記が編纂された奈良時代には人々に認識されていたことだけは確かでありましょう。

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