沢田研二の魅力!名曲「危険なふたり」が成し遂げたターニングポイントとは 70年代を識者が語る

山本 鋼平 山本 鋼平
都内でイベントを開いた中川右介さん(左)、佐藤利明さん
都内でイベントを開いた中川右介さん(左)、佐藤利明さん

 作家の中川右介さんと娯楽映画研究家の佐藤利明さんがこのほど、東京・神保町でトークライブ「『沢田研二』の時代」を開催した。1960年代後半のザ・タイガース時代から、ソロ歌手として挑戦と飛躍を続け、78年に頂点に立つまでのジュリーの足跡が語られた。

 中川さんは昨年12月に著書「沢田研二」(朝日新書)を上梓。500ページ超のボリュームで、48年に沢田研二が誕生してから78年までを、主に66年の芸能界デビューから苛烈なヒットチャート争いと賞レースを制するジュリーの軌跡が、圧巻の情報量で記された。

 クレージーキャッツ、昭和歌謡などの研究で知られる佐藤さんとは盟友関係。77年に大ヒットした沢田の「勝手にしやがれ」、ピンク・レディー「渚のシンドバット」の2曲を、ザ・ドリフターズの志村けんが合成して〝勝手にシンドバット〟とパロディ化し、TBS系「8時だョ!全員集合」で共演した沢田の前で爆笑を呼んだ。その様子が作中に記されているが、放送日が同年9月10日であることは、佐藤さんの協力で調べ上げたという。

 約2時間半のイベント。書籍の内容に沿って、同年代の2人(中川さん60年生まれ、佐藤さん63年生まれ)が当時の思い出や沢田への評価を語り合った。イベントでは1年ごとにリリース曲とともに当時の世相、芸能界の情勢が紹介されたのだが、中川さんの所感は書籍と重なるため、本稿では佐藤さんの感想を中心に、ジュリーが国民的歌手になったキーポイントを紹介したい。

 佐藤さんはタイガースを「GS(グループ・サウンズ)の中ではディレクターにやらされている感がなかった」と述べ、前身のファニーズ時代から各メンバーが音楽的バックボーンを持っていた点に注目。一方で「タイガースの良さは若い女性にしか分からなかった。男と大人には理解されず、沢田研二がソロになってからも『GS上がり』などと揶揄されていた」と指摘した。

 第1期のタイガースはNHK紅白歌合戦に選出されず、日本レコード大賞などの受賞もなし。ブルー・コメッツとは異なり、人気と世間的評価が一致しなかった。解散後は元ザ・テンプターズ、元ザ・スパイダースのメンバーと集結し、沢田研二と萩原健一(テンプターズ出身)のツインボーカルを擁したPYG(ピッグ)が立ち上がったが自然消滅を余儀なくされた。決して高くなかった評価から生まれた反骨心を、70年代の躍進につなげていった。

 沢田が覇道を進む音楽的変化について、佐藤さんは73年4月21日に発表され、大ヒットした「危険なふたり」(作詞・安井かずみ、作曲・加瀬邦彦)に注目。沢田が主演したテレビドラマ「同棲時代」との相乗効果で「キャンディーズの『年下の男の子』(75年発売)が男の子をとりこにしたように、ジュリーはこの曲で年上の女性をとりこにした。そしてロカビリー世代の心もつかみました」と言及。大人の男女へと、ファン層を広げる契機に挙げた。

 75年8月21日発売の「時の過ぎゆくままに」(作詞・阿久悠、作曲・大野克夫)は、沢田主演のテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌として使用され、大ヒットを記録。テレビプロデューサーの久世光彦、阿久悠、PYGでステージをともにした大野克夫のラインが構築され、その流れが結実したのが77年5月21日発売の「勝手にしやがれ」(作詞・阿久悠、作曲・大野克夫)だった。

 佐藤さんは「僕はポケットに手を入れ、帽子を投げ飛ばす姿に憧れました。学校ではやっちゃいけないことでしたよね」と語り、これまでの活動の積み重ねで「ジュリーはタブーを破っていく存在となり、男女を問わないスターになりました」と続けた。当時の男子学生はファッションで沢田を倣うことは世相的に難しかったが、それだけに絶対的な存在に深化したという。自身の記憶を交えて語り、会場の半分以上を占めた男性客をうなずかせた。

 同曲は日本レコード大賞、日本歌謡大賞の大賞に輝いた。レコード大賞の中継ではザ・タイガースのメンバー(瞳みのるを除いて)、元PYGからは萩原健一、さらに関係者として元PYGの大野克夫と井上堯之がいた。

 沢田がレコ大2連覇を目指した翌1978年は、大ブレークしたピンク・レディーが日本歌謡大賞を「サウスポー」で、日本レコード大賞を「UFO」で戴冠。しかし、ピンク・レディーは紅白歌合戦出場を辞退し、裏番組で日本テレビ系の特番に出演。それに対抗するように紅白側は、演歌歌手が定番だった大トリを、紅組の山口百恵に続いて白組・沢田の「LOVE(抱きしめたい)」(作詞・阿久悠、作曲・大野克夫=78年9月10日発売)に組んだ。大トリでは全出演者がステージ後方に並ぶのが恒例だったが、沢田の意向でスポットライトはマイク周辺のみ、センターが際立つ演出が施された。若い女性のみの支持だった沢田は、紅白の歴史をも変える存在になっていた。

 この場面をもって、書籍同様にイベントも幕を閉じた。佐藤さんは「4年以上も大野克夫の楽曲でヒットを続け、ジュリーはお茶の間にロックを浸透させた。欧米を見ても、ロックの原点回帰を果たしたデュラン・デュランを先取りしているようです」と補足した。そして「常に仲間を大切にして、関わった皆がスターになっていく。75歳になった沢田研二は今も大きな存在のままで、コンサートでもファンとの素晴らしい関係が続いている」と総括。色あせない輝きをたたえた。

 なお、同著には沢田にとってトップ級の代名詞である主演映画「太陽を盗んだ男」(79年公開、長谷川和彦監督)、大ヒット曲「TOKIO」(作詞・糸井重里、作曲・加瀬邦彦=80年)は当然ながら登場しない。著者の中川さんは「1冊にまとめることは不可能」と前置きしつつ「どこで終わらせるか考えましたが、ジュリーが頂点に立ったところにしました。70年代から80年代まで、紅白とレコード大賞の価値は現在とは比較にならないものでしたから」と語った。

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