長編物語『源氏物語』の作者である平安時代中期の女性・紫式部。その紫式部を主人公にしたNHK大河ドラマ「光る君へ」が、1月7日にスタートしました。紫式部を演じるのは、女優の吉高由里子さん。紫式部と同時代に生き、藤原氏の摂関政治の最盛期を築いた貴族・藤原道長を柄本佑さんが演じます。
ドラマ第1回目「約束の月」では、幼い頃の紫式部と、三郎(後の道長)という少年との出会いと交流が描かれていました。幼少時に、この2人が顔合わせすることはあったのでしょうか。主人公が主要人物と幼少期に会っていたというのは、大河ドラマあるあると言えるかもしれません。両者の生い立ち等から考えてみましょう。
まず、紫式部の生年ですが、諸説あります。天禄元年(970)、天禄3年(972)、天延元年(973)、天延2年(974)ほか様々な説が乱立しているのです。どれも確固とした根拠はなく、式部の生年は現時点においては謎に包まれていると言えましょう。
紫式部は、藤原為時の2女として生まれます。藤原氏北家の一門でしたが、嫡流から外れたため、その地位は高いものではありませんでした。ちなみに、式部の母方も藤原氏です(式部の母は、藤原為信の娘)。式部には、姉や弟(兄説もあり)・藤原惟規がいました。式部は、父方の曽祖父・藤原兼輔が残した邸(堤第)にて生まれ育ったと考えられています。中納言まで昇進した兼輔は、その邸が賀茂川堤にあったので、堤中納言と称されました。のちに道長の邸宅となる土御門第は、堤第の程近くにありました。
藤原道長は、康保3年(966)、藤原兼家の5男として生を受けます。式部の生年を仮に天禄元年(970)とするならば、道長の方が4歳年上ということになります。道長の母は、藤原中正の娘(時姫)でした。同母兄には、藤原道隆と道兼がいます。道長は、5男とは言え、摂関家(摂政・関白に任じられる家柄)の子として生まれたのです。
一方、紫式部は、下級官人の子。そうしたことから、式部と道長が、幼少時に顔を合わせた機会は「ほぼゼロ」と、「光る君へ」の時代考証を務める倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)も主張しています(同氏『紫式部と藤原道長』講談社、2023年)。
今回のドラマでは、紫式部の名は「まひろ」となっていますが、式部の実名は明らかではありません。紫式部という呼称も本名ではありません。紫式部の「紫」という呼称は、式部が書いた『源氏物語』の登場人物「紫の上」という女性に由来するとされ、しかも式部が亡くなってからの呼称なのです。
大河ドラマ「光る君へ」、いよいよスタートしましたが、今後、物語がどのように展開していくのか、楽しみです。 第1回目は、 式部の母(劇中では、ちはや。本名は不明)が、乱暴な藤原道兼(藤原兼家の次男)に惨殺されてしまうという衝撃的な展開でしたが、これは創作であり、式部の母は、式部やその弟を産んだ後に病で亡くなってしまったと考えられています。
(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)