NHK大河ドラマ「どうする家康」第18話「真・三方ヶ原合戦」。三方ヶ原合戦での徳川家康と家臣の様子が描かれました。元亀3年(1572)12月22日、三方ヶ原(静岡県浜松市北区)において、武田信玄と徳川家康・織田信長が派遣した援軍が激突します。両軍はどのように戦をしたのでしょうか?
『徳川実紀』(江戸時代に編纂された徳川幕府の歴史書)を基に見ていきましょう。同書によると、負け戦のなか、居城・浜松城に辿り着くことができたのは、夏目吉信のお陰とあります。吉信は、永禄年間の三河一向一揆の際には、家康に背き、一揆方に味方しますが、生け取りとなります。助命された吉信は、家康から懇ろに扱われたこともあり、いざという時には「御恩」に報いようと考えていたようです。
そして、三方ヶ原合戦における徳川軍のピンチ!家康は、戦うため、敵軍の中に引き返そうとしていました。が、それを見た吉信は、持っていた槍の柄で、家康が乗っていた馬の尻をバシリと叩きます。馬は驚き、浜松城の方角に走り出す。一方、吉信は敵軍の中に、突入し、ついには討死するのでした(『徳川実紀』)。
家康の命が助かったのは、夏目吉信が、自分の生命を犠牲にして、家康を逃したからでした。さて、武田軍は早くも、浜松城の近辺に迫っていたようですが、家康は同書によると、城門を閉めることに同意しなかったとのこと。逃れてくる味方の兵士が城に入ることができなくなるからです。また「敵が如何に大軍であっても、儂が籠る城に押し入ることはできまい」として、門の内外に「大篝」(かがり火)を設けます。
家康は城の奥に入って、湯漬けを3杯も食べ、やがて寝てしまったようですね。家康の高鼾(いびき)が聞こえてきたことから、近くにいた男女がびっくりしたと同書にはあります。この話が本当かどうかは分かりませんが、「神君」家康は、敗戦の最中にあっても、鼾をかいて寝るほど、余裕だった、泰然自若としていたということを示したいがために挿入されたとも考えられます(今回のドラマでは、家康は床に寝転がり、泣いていましたが)。
徳川軍はその夜、武田軍に鉄砲での夜襲を仕掛け、損害を与えたことから「恐るべきは浜松の敵」として、武田信玄も驚嘆したとの逸話も同書には掲載されています。三方ヶ原合戦は、家康の三大危機の1つではあるのですが、『徳川実紀』や『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、徳川軍の奮戦が結構記されているのです。
ちなみに、三方ヶ原合戦における家康の逸話としては、敗走中に、恐怖の余り、馬上で脱糞したというものがあります。浜松城に着いた家康は、家臣に「糞を漏らしています」と指摘されるが、恥ずかしい家康は「糞ではない。焼味噌だ」と弁解したとの逸話がありますが、三方ヶ原合戦で家康が脱糞した事を示す史料はありません。後世の創作と言えるでしょう。