18日に大阪・心斎橋角座で行われる「酒井くにお追悼公演」を前に、このほど相方で弟の酒井とおる(71)が「よろず~ニュース」の単独インタビューに応じた。今回の公演にかける意気込み、ギャグ誕生の裏話を語った。
昨年10月28日にくにおさんが死去。約5年前にくにおさんが腰を悪くしてからは、とおるに毎日午前9半に電話が来るようになっていた。当日、連絡ないのを不審に思ったとおるが、くにおさんの自宅に様子を見に行ったところ、横たわっている姿を見つけた。「本当に眠るようでした。苦しまなかったのでは」と振り返った。
70年に浪曲漫才コンビのさがみ三太・良太に入門。コントを始め、東京でデビューした。東京ではヌード劇場でショーの合間に舞台を踏んだが、活躍の場を求めて72年に大阪へと移った。「笑いを目的とした舞台に出たくて、兄貴が先輩からいろいろと話を聞いていました。僕は口を挟めなくて、ついて行くだけでした」と当時を思い出していた。
くにおさんのギャグ「とおるちゃん!」ができたのは、来阪して3年後くらいの舞台でのアクシデントだった。ネタをよく忘れていたようで、漫才中にとっさに「なんだったっけ?とおるちゃん!」と発したところ、観客にウケた。同じく「とおるちゃん、なんで教えてくれないの」と日本舞踊をまねるのも、ネタを忘れて踊ったのが始まりだった。「踊りを習っていましたし、コントで〝おやま〟もやっていたので、あういう女性のしぐさがうまいんです」と明かした。
最初はお金がなく質屋へ通う日々だったが、77年の「NHK上方漫才コンテスト」で優秀敢闘賞を受賞したことで、ようやく芸人として軌道に乗ってきた。当時はコントと漫才の両方をやっていて、人気を博した勝ち抜きテレビ番組「お笑いスター誕生」で7週目まで勝ち進んだこともあった。「8週目で落ちたかな。漫才、コント、漫才、コントと入れ替わりでネタをやっていました。岩手の人は二刀流が好きなんです」と、同郷のメジャーリーガー・大谷翔平を引っかけて、なつかんしだ。
数々の賞を手にしてきた中で、一番うれしかったのは94年の「上方漫才大賞・奨励賞」。97年には「上方漫才大賞」を受賞したが、「大賞もうれしかったですけど、一番は上方漫才大賞の奨励賞ですね。ようやく上方漫才師の仲間入りができた」と胸がいっぱいになったという。
「コンテストに出ても審査員の先生に〝関西弁になっていないね〟と言われて悩んだ時期もありました。岩手出身で東京弁にも慣れて、次は関西弁かと…。でも、そのうち、どんな話し方でもお客さんが分かってくれて笑ってくれたら、それでいいと開き直りました」。言葉の壁に苦しみながら、山あり谷ありの日々を送ってきた。
今回はくにおさんと親交の深かった芸人が数多く主演する。スケジュールの都合で参加できなかった芸人もいいて、「ありがたいですね」と感謝する。とおる自身の出演については「何をやるかは思案中です」と思いを巡らせていた。天国から見守っているであろう、くにおさんには「あまり見てほしくないですね」と照れ笑いだった。
なお、公演翌日の19日は同じく大阪・心斎橋角座で、「漫才師 酒井くにおのあれやこれや」と題して、くにおさんの思い出の品が展示される。入場は無料。