大河『家康』信長との清須同盟は本当にあったのか!? 「なかった」と思われる2つの理由 識者が説明

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ『どうする家康』第4回「清須でどうする」では、松平元康(後の徳川家康、松本潤)が、尾張の織田信長(岡田准一)と盟約を結ぶため、清須に向かい「両雄対面」となる場面が描かれました。

 そこで、家康は信長の妹・お市や木下藤吉郎秀吉などとも対面していましたが、この家康と信長との清須での会盟は「清須同盟」と呼ばれています。永禄5年(1562)正月、元康が清須城に赴いて、信長と会い、盟約を結んだと考えられていたのです。

 今でもそのように記している一般の歴史書も稀に見かけます。この「清須同盟」については、『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、次のようにあります。

 「信長は君(元康)を味方にしようと計り、水野信元(信康の生母・於大の方の異母兄)などをして、礼を厚くして、和議を持ちかけてきた。君も、今川氏真は国を滅ぼす者だと感じていた。よって、終に信長の乞いに従うことにした。信長の喜びは大きなものであ った」と。

 信長から家康に同盟を結ぶことを持ちかけてきたというのです(織田方の滝川一益が、元康の臣・石川数正を通じて、和議を持ちかけてきたとの話もあります)。そして、元康は清須に向かいます。清須では、元康は厚くもてなされたとあります。

 その時、信長は「この信長が幸運にも、天下統一したならば、君(信康)は私の麾下に属して欲しい。君が統一の功績をなしたならば、信長が君の旗下に参ろうぞ」と、元康に語ったと『徳川実紀』にはあります。

 これらは逸話としては面白いですが、最近ではこの清須同盟はなかったと言われています。元康が信長と同盟を結んだのは本当なのですが、元康の清須訪問はなかったと言うのです。

 その理由の1つとしては『信長公記』(信長の臣・太田牛一が記した信長一代記)や『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)に清須訪問のことが全く記されていないからです。もし、元康の清須訪問という「重大事」があったならば記されて然るべきと思います。

 理由の2つ目は、元康は東三河において、今川方と戦をしており、岡崎を離れることは困難というものです。余裕がなかったということです。こうした理由からいわゆる「清須同盟」はなかったとされているのです。

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