NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場している源実朝(1192〜1219年)は、鎌倉幕府の三代将軍です。源頼朝と北条政子の次男であり、兄の源頼家(二代将軍)が政界から追放(その後、暗殺)されると、12歳で、その後継となりました。
ちなみに、実朝というと昔から次のようなイメージや非難がついて回っています。「京都風の文化と生活とを享受する楽しみに意をもっぱらにし、夫人も都から迎え、右大臣の高官を望むという風であった。そのため関東武士の信望はしだいに薄らいだ」とか「蹴鞠や和歌に没頭し、武芸が廃れた」との批判です。
幕府の実権は、北条氏にあり、実朝は政治の意欲なく、遊芸にうつつを抜かす文弱な将軍とのイメージです。
しかし、そうしたイメージは近年、改められつつあります。14歳の時には、文書でもって地頭を任命したり、逆に地頭職の停止を命じたりしていることは、実朝が若くして積極的に政治に関わろうとした証左でしょう。
もちろん、年少の実朝が何から何まで独断で決断できたわけではなく、その背後には、北条義時や大江広元など複数の有力御家人の支えがあったには違いないのですが。
兄の頼家の時代にも、13人の宿老(有力御家人)たちが頼家を支えようとしていたが、それと同じ事です。承元三年(1209年)には、備後国大田荘の年貢未納の相論(訴訟で争うこと)が起きていたが、18歳の実朝はそれに直接命令を下し、裁こうとしました。争っている両者を追い出した上、審理を差し置くという厳しいものでした。
実朝と言えば、歌人として名高いが家集『金槐和歌集』には「時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八代龍王 雨やめたまへ」との和歌が収録されています。これは、建暦元年(1211年)7月、洪水が起こり、民衆が嘆く様を思いつつ、本尊(仏の像)に向かい、祈りながら、実朝が作歌したと言われるものです。この和歌を見ただけでも、実朝の為政者としての自覚を垣間見ることができるでしょう。
承元二年(1208年)、実朝は疱瘡を患っています。重症となりますが、命は助かります。実朝はそれまで何度も鶴岡八幡宮に参拝していましたが、それから3年間は疱瘡の瘡痕を恥じて参拝を止めてしまいます。繊細な一面を持っていたのです。実朝は、正室との間に子はありませんでした。ドラマでは、同性愛であることをうかがわせるシーンがあり、疱瘡が原因との説もありますが、具体的な理由は不明です。