〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)が燃え尽きた。訃報を受け、2000年代前半にプロレス・格闘技を担当していた記者が、当時取材した猪木さん関連の記録を探していたところ、自室から「猪木」とラベルに手書きしたカセットテープが見つかった。再生すると、その内容は04年12月に都内で単独取材した時のもの。多岐にわたる話題の中から、今回は「師・力道山の怒り」というテーマに絞り、18年の時を経た今も心に響く猪木さんの独白を「蔵出し」する。(文中一部敬称略)
取材の趣旨は、同年にデイリースポーツ紙面で猪木さんの半生を描いた連載「闘魂伝説」を執筆したプロレス評論家・櫻井康雄氏(17年死去)と猪木さんによる「新春対談」(05年1月3日付)。東京スポーツ記者として猪木さんの駆け出し時代から取材し、テレビ朝日の新日本プロレス中継「ワールドプロレスリング」解説者として知られた櫻井氏を前に、猪木さんは〝対談〟を超えて、独演会を展開した。筆記役の記者が回したテープの収録時間は約1時間半。その大半は分量的な制約で紙面化されることはなく〝お蔵入り〟となっていた。
猪木さんは17歳の時、移住先のプラジルで力道山にスカウトされ、1960年に日本プロレスに入門。その輝かしいキャリアのスタート時点で、師匠の鉄拳を浴び続けた。
「力道山が俺を殴るということは、俺に対しては心が許せる、自分のストレス、弱さをぶつけることができるということだったと思う。逆に(ジャイアント)馬場さんに対しては、それができなかったと思うんですよね。自分も年を重ねて感じることは、それが愛情だったかどうかはともかく、俺は心を開ける存在だったということじゃないか」
「人を殴る」という行為、つまり〝暴力〟は、どんな時代であれ、許されることではないが、もし、その行為の中に肯定できる部分があるとすれば…。猪木さんは「生き様」と答えた。
「テメエの生き様がなければ人は殴れませんよ。自分の背中を見せて、その自分の生き様に自信がなければ人は殴れない。力道山は俺に自分の夢なんて語った事はなかったけど、俺はぶん殴られながら、『自分の夢は自分でかなえる』ということだけを思って生きてきた。力道山に『バカ野郎!』と怒られる側としてはヘラヘラしていられなかった」
では、力道山の「怒り」とは何だったのか。
「力道山の場合は自身が朝鮮人であり、そのことで大相撲では横綱になれないのではないかという思い、国が分断されて家族にも会えない、そういう、いろんなものが重なって、あの空手チョップの迫力に集約されたわけだから。それはもう、力道山という人の特許です。誰もマネしようとしてもできない。あのドバーン!と首をたたき切るくらいの拳。力道山からすれば俺らは甘っちょろいのかもしれない。俺は現役でなくなった今でも、ふっと(力道山の姿が)夢に出て来ることはありますね」
その「怒り」が21世紀のレスラーには足りないと嘆いた。
「今の時代、怒りが足りなくなっている。レスラーも怒ってるのか、怒ってないのか分からない。腹の底から『テメエ、この野郎、ぶっ殺すぞ!』というのがない。本当に殺したら犯罪だけど、そういう気迫、瞬間的に突っ張っていくスピリットというか、心の奥底に潜在的にある怒り、それを、大衆が心の底で思っている怒りとして代弁できるか。その怒りが本物でなければ代弁できません。リングと日常は別じゃないんですよ。いくら演じようとしてもそれはできない。生きている姿での根源的な怒りがあるか」
一方、恩師の〝遺産〟である北朝鮮との交流も語った。
「国会議員をやったおかげで、北朝鮮に力道山の娘がいるという情報が入ってきた。そこから始まって95年の(平壌での)プロレスイベントにつながっていく。力道山という人が俺に財産を残してくれた。人間はいくつかのDNAを背負っている。俺の場合、おやじの実業家としてのDNA、じいさんの山師的なDNA、そして、力道山のDNA。『カエルの子はカエル』という言葉があるけど、結局、そうなんですね。成功する、しないはともかく、遺伝子の中から発想法というのは出てくると思う。力道山という超一級品の遺伝子を継いでもらったということは、こういう職業をやる上で大変な財産になった」
北朝鮮との外交に対し、政治団体をかたる者たちから街宣活動で攻撃され、「飛行機の中で遺言状を書いた」と取材時に打ち明けた猪木さん。「その連中のために書いたワケではなく、自分の人生の中でいつか書かないと…と思っていたから、それをきっかけに(遺言状を)書いた」とも付け加えた。
「俺を批判するヤツは批判してもいい。そういうトラブルには触らない方が利口な生き方なのかもしれないけれど、俺は信念に基づいて、命をかけて対抗する」。感情のスイッチが入り、語気を荒らげた迫力のある言葉の数々がカセットテープから何度もこぼれ落ちた。