『鎌倉殿』あぁ稲毛重成にも悲劇 畠山重忠の乱後に殺害の連鎖 鎌倉北条氏の身も凍る残酷 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(zef art/stock.adobe.com)
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 1205年6月22日、武蔵国の豪族・畠山重忠(中川大志)は、謀叛人として幕府軍(北条氏)に討たれます。愛甲三郎季隆の射った矢が重忠に命中。季隆はすぐに重忠の首を掻き切り、北条義時の陣に持参したのでした。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、描かれていませんでしたが、実はこの日、義時の3人目の妻・伊賀の方(ドラマでは、のえ)が男子を産んでいます(妊娠中を思わせるシーンはありましたが)。後に執権となる北条政村です。ある者は死に、ある者はこの世に生まれ出る。人間社会とはそのようなものとは言え、無常を思わずにはいられません。

 畠山重忠の乱を鎮圧し、幕府軍が鎌倉に帰ってからも、惨劇は再び起こります。榛谷重朝(稲毛重成の弟)と嫡男の重季、次男の秀重が三浦義村によって殺されたのです。そればかりか、稲毛重成(武蔵国の領主、妻は北条時政の娘。畠山重忠とは従兄弟)は大河戸三郎行元に討たれ、重成の子・小澤重政は宇佐美与一により殺されるという殺害の連鎖が引き起こされたのでした。

 村上誠基演じる稲毛重成らが殺されたのは、『吾妻鏡』によると「今回の畠山重忠との戦の原因は、全て重成の企みがあったから」と記されています。北条氏(時政)が彼らを殺すことを三浦氏らに命じたのでしょう。

 平賀朝雅は、畠山一族に恨みがあるので、盛んに牧の方(北条時政の後妻)に畠山に反逆の兆しありと訴えていました。北条時政が内密にそのことを稲毛重成に伝えたところ、重成もまた畠山重忠を讒言。これによって、畠山重忠は討伐されることになったというのです。稲毛重成とその親族に全ての責任が被せられた形といえるでしょう。重成らが誅殺されるならば、平賀朝雅もすぐに殺されるべきだと思うのですが、そうはなってはいません。平賀は源氏であり、牧の方の娘婿でもあるので、この時は命拾いしたのでしょう。稲毛重成の妻は北条時政の娘ですが、既に亡くなっていました。

 『吾妻鏡』には、畠山重忠の死を多くの人が悲しんだとあります。人々の不満が北条氏に向くことだけは、北条時政にしてもその子・義時にしても避けたかったはずです。よって、稲毛重成らに全ての責任を負わせて殺してしまったとみることもできるでしょう。北条氏の所業は残酷ではありますが、それくらいの事をしないと権力闘争を勝ち抜くことはできなかった。畠山重忠の乱鎮圧の翌日(6月23日)に早くも、一連の慘劇が起こっていますので、北条氏は予め乱後には稲毛らを討つことを考えていたと思われます。その素早さに身が凍る想いです。

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