『鎌倉殿』源頼家のあまりにも無念な最期 暗殺者「トウ」は「藤馬」からの着想か 歴史学者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
修善寺(富幸 塚原/stock.adobe.com)
修善寺(富幸 塚原/stock.adobe.com)

 1203年9月上旬、源実朝が征夷大将軍となります。鎌倉幕府3代将軍の誕生です。その同じ月の29日には、実朝の兄で2代将軍であった源頼家(金子大地)が、鎌倉から伊豆国修善寺に旅立つ。よく晴れた日であったといいます。旅立ったといっても、物見遊山ではなく、修善寺に押し込められる事になるのです。

 頼家は病になり、生死の境を彷徨う状態だったことや、鎌倉殿として政治を行うことが困難になったということで、母・北条政子が頼家を出家させていました(9月7日)。比企能員という後援者を失い、北条氏と対立を深めていた頼家。このままでは、頼家が殺されるか、北条氏との戦に突き進み、鎌倉を灰にしかねないと憂慮したのでしょう。それを避けるためには、頼家を出家させ鎌倉から追い出すしかなかった。政子も苦渋の決断だったと思います。

 だが、一番辛いのは頼家だったでしょう。追放から2カ月も経たないうちに、母・政子と実朝に嘆願の書状を出しています。「深山に閉じ込められ、退屈で仕方がない。これまで日頃、召仕っていた近習を呼び寄せる事をお許しください。また、安達景盛を私に引き渡して処罰させてほしい」と。 安達景盛は、愛する妾を頼家に奪われ、それを恨むと、頼家に逆恨みされ、討伐されかかった武将です。景盛の母は、比企尼の長女でした。そうであるにもかかわらず、比企氏や自分を裏切った景盛に頼家は怒りを爆発させていたのです。

 しかし、頼家の願いは、幕府で検討された結果、何一つ受け入れてもらえませんでした。それだけでなく、手紙を鎌倉に送ることも禁じられてしまうのです。頼家の悲しみはどれほどのものだったでしょう。幽閉中の我が子の様子を聞いた政子は悲嘆に暮れたといいます。

 そして翌年(1204年)の7月19日。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には頼家の死亡記事が載ります。「昨日、頼家が23歳にて、伊豆国修善寺で死亡した」と。これだけ見れば、頼家は病で死んだかと思うでしょう。

 だが、鎌倉時代初期の僧侶・慈円が書いた書物『愚管抄』には、別の出来事が記されています。 「修善寺で頼家は刺殺された」と。しかも、殺すのに手間取ったため、首に緒をかけ睾丸を掴み、殺したというのです。 刺客の名は北条氏から遣わされた「藤馬」。

 刺客の名は、分かりませんが、頼家の息子・一幡を殺したのは「藤馬」という義時の郎党なので、頼家もまた藤馬によって殺された可能性もあります。『愚管抄』には藤馬が一幡を殺し、亡骸を埋めたとあります。その文に続き「修善寺において頼家入道を刺し殺したのであった」と記されています。

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、下人で暗殺者の善児に養育された孤児の少女「トウ」(山本千尋)が登場しています。彼女もまた、善児と同じように暗殺に手を染めていますが「トウ」は「藤馬」から着想を得て、誕生したキャラクターかと思われます。 2代将軍だった頼家は、20代の若さでこの世を去りました。 無念の死というべきでしょう。

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