5月15日、沖縄の本土復帰から50年の節目を迎える。当時、沖縄本島の那覇で高校時代を過ごしたボクシングの元WBAライトフライ級王者・具志堅用高(66)が、よろず~ニュースの取材に対し、思い出となった沖縄の食べ物を振り返った。中でも、半世紀前と変わらない味とパッケージの沖縄限定版「ボンカレー」をソウルフードの例として挙げたことを受け、製造元である大塚食品の担当者に話を聞いた。
本土復帰前後の沖縄では、家庭に常備され、学校でも販売されていたという。
具志堅は「沖縄には復帰前からのレトルトカレーがあってね、女優の松山容子さんがパッケージのボンカレーです。今でも沖縄限定の商品として、スーパーで売られています。僕が高校生の頃は、ボンカレーも学校の売店にあったなぁ。食堂ではオバアたちが作るカレーがあるんだけど、売店にボンカレー。沖縄そば、チャンプルー、カレーライス…。沖縄のうまくて庶民的な食べ物ですよ」と懐かしんだ。
具志堅が少年時代から食べてきたボンカレーは、1968年に国内で発売されたオリジナル版。パッケージは、盲目の女性剣士を熱演した「お市」シリーズなどで知られる松山容子さんが和服姿でレトルトパウチを手にしたビジュアルで、ホーロー看板でもおなじみのデザインだ。78年に発売された「ボンカレーゴールド」、2009年発売の「ボンカレーネオ」と銘柄が増えても、沖縄ではオリジナル版が人気だったため、継続して販売されていったという。なぜ、沖縄では好評だったのか?
大塚食品のホームページによると、現地の担当者が質問に答える形で、「沖縄のご飯との相性」と「人でもモノでも長く付き合う県民性」の2点を指摘している。
沖縄県民はご飯を比較的固めに炊く傾向があり、これは沖縄県に水の硬度が高い地域があることや、かつては外米を炊いていた歴史も関係があると推察。そうした硬めのご飯には、オリジナル版の「ドロッとしたとろみの強いカレールー」が合うという。
具志堅も「当時、沖縄の米は(日本の味覚的には)うまくなかった。日本の米じゃなく、海外の米が入ってたんじゃないかな」と証言する。また、県民性については「沖縄でのボンカレー発売は全国の他府県での発売から約3か月遅れた1969年8月。本土復帰前で、その当時、国産の食品を食べたことに特別な思いがあり、その最初の出会いをずっと大切にしているのではないでしょうか」と推測されている。
では、オリジナル版の味は、発売当初と現在では変化があるのだろうか。
大塚食品の担当者は、当サイトの取材に対して「ボンカレーはあめ色たまねぎのコクと炒めた小麦粉の香ばしさ薫るカレーで発売当時の味わいそのままのカレーです」と説明。当時の価格については「70年代前半は『100円』、70年代後半に中辛が発売され、『120円』で販売されていました」と付け加えた。ちなみに、オリジナル版は、ホーロー看板をデザインしたパッケージの「元祖ボンカレー」として全国発売されているが、沖縄限定版は「からくち」が黄、「ちゅうから」がオレンジ、「あまくち」が赤と、3色に色分けされて独自性を出している。
沖縄に広く定着した歴史を踏まえ、担当者は「発売当初からさまざまな場所でお取り扱いいただいていたことは、非常にボンカレーが皆さんに愛され続けているのだと思います」とコメントした。
もちろん、具志堅にとって、沖縄の懐かしい食べ物はボンカレーだけにとどまらない。
「『スパム』っていうポークの缶詰と玉子焼きの『ポーク玉子』は食堂で安くておいしく食べられてね。故郷の石垣島で一番のごちそうと言えば鶏のもも肉で、運動会とかの特別な弁当に入ってた。それが沖縄本島に来たら、牛のステーキですよ。今も人気の『ジャッキー』という有名なステーキハウスには、本土復帰の頃、高校のボクシング部監督や先輩に初めて連れて行ってもらって、下宿先の人ともインターハイの前に行ったな。お客さんの半分はアメリカ人で、看板もメニューも英語とドル。1ドル360円の時代ですよ。当時はステーキが1ドルで食べられた。こんなうまい食べ物があるのかとびっくりしたよ。『A&W』のハンバーガーもドリンクとか付けたら1ドル以上して、これもごちそうだったね」
話は尽きない。食にまつわる記憶は故郷(ふるさと)につながっていた。