ネッシー探検隊長だった石原慎太郎さん 大学祭の「ギャラ騒動」で知己を得た伝説の興行師が悼む

北村 泰介 北村 泰介
石原慎太郎氏
石原慎太郎氏

 元東京都知事で作家の石原慎太郎氏が89歳で死去した。芥川賞を受賞した小説「太陽の季節」で既成の価値観を揺さぶり、同作で描写された「太陽族」という若者風俗が社会現象化し、人気作家としてオピニオンリーダーとなり、自民党から参院選全国区に出馬してトップ当選。衆院議員に転じて閣僚も経験し、平成期の都知事を13年半も務めた。訃報を受け、政治家としての足跡が主に報じられているが、一方で「国際ネッシー探検隊」の総隊長を務めたという一面もある。探検隊を企画した伝説の興行師・康芳夫氏が、よろず~ニュースの取材に対し、大学時代に交流を深めるきっかけとなったエピソードから未確認生物(UMA)ネッシーの探索活動を踏まえて、「恩人」の石原氏を悼んだ。

 康氏は東大在学中に石原氏と出会った。本郷キャンパスで開催される学園祭「五月祭」の企画委員長を務めた康氏は、「新しい芸術の形」というテーマのティーチイン(学内討論集会)を開催。画家の岡本太郎氏、詩人の谷川俊太郎氏、作曲家の武満徹氏ら当代きっての文化人に石原氏も加わった。終了後、康氏は謝礼として500円をゲストに配り、仲間と学内の本部でくつろいでいると石原氏から電話がかかってきた。

 「ふざけるのもいいかげんにしろ!学生だからといってこの金額は何だ。この俺に数時間も話させておいていったいどういうつもりだ。これなら最初からノーギャラと言ってもらった方がはるかに納得がいく。こんな金額で納得しては、自分の価値をはずかしめてしまう。絶対に許せない!」

 康氏は著書「虚人魁人 国際暗黒プロデューサーの自伝」(2005年刊、学研)で石原氏の〝猛抗議〟を再現している。ちなみに当時の500円は「今の価値で1万円ほど」だという。肝を冷やした康氏は石原氏に居場所を聞くと、弟・裕次郎氏の親友が営む都内のステーキレストランに向かった。そこで、事態は急転する。

 康氏は当サイトの取材に「石原さんは岡本さんや武満さんと食事をしていた。僕は素直に謝った。すると、石原さんは『きみ、なかなかいいところ、あるじゃないか』と笑って許してくれた」と明かす。金銭に口を出す文化人。そこが旧来の美学や価値観とは違うと、康氏は感じた。後日、10倍の5000円を配り直した。この出来事をきっかけに石原氏の知己を得た。

 石原氏が5か国合作のオムニバス映画「二十歳の恋」(1962年公開)で、フランスのフランソワ・トリュフォー監督やポーランドのアンジェイ・ワイダ監督ら世界的な名匠と並んで、日本編を監督した際に、康氏は自ら志願してサード助監督を務めた。大学卒業時には就職の世話までしてもらった。

 「呼び屋の風雲児と騒がれていたプロモーター・神彰氏の会社に就職したのですが、私を紹介してくれたのが石原さん。当時、神さんの奥さんだった作家の有吉佐和子さんと石原さんが友人同士で、石原さんが『変わった東大卒業生がいる』と有吉さんに伝えてくれた。私がプロモーターとして社会に出るきっかけを作ってくれた石原さんは私の恩人です」

 そうした関係を踏まえて、73年に結成された「国際ネッシー探検隊」の総隊長に石原氏が就任する。ネス湖に浮かべたボートで、石原氏は笑顔で康氏と肩を並べ、湖面を見つめた。ネッシーの影を追い続けた。地元では連日の歓迎パーティーが行なわれた。一方で、国内外の一部メディアからは同企画への批判報道もあった。

 「石原さんは(75年4月の)都知事選で美濃部亮吉さん相手に落選した。石原さんから『康君に乗せられてネッシー探検隊長なんてやったおかげで、マスコミの総攻撃にあって落ちちゃったよ』と冗談めかして言われたものですが、本音では気にしておられなかった。自分の感性で探検隊に参加してくださった。ただ、落選の遠因が『ネッシーだった』というのは冗談だとしても、石原さんには迷惑をおかけして申し訳ないと思っています」

 時は流れ、5歳上の石原氏がこの世を去った。康氏は「おくやみの電報を打ちました。プロモーターの自分があるのも石原さんのおかげ。残念です」と恩人をしのんだ。

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