中学受験に向けて「がんばる子どもを支えたい」という気持ちのみでかけた言葉が、いつの間にか子どもを追い込んでしまうことがある。「励まし」と「プレッシャー」の境目は、思っているよりずっとあいまいだ。
現在、次男(小学5年生)は、通信教材を利用して中学受験の勉強を進めている。次男は勉強が嫌いというわけではないが、机に向かうまでに時間がかかるタイプだ。テキストを開いたまま手が止まり、深いため息がこぼれる日もある。
そんな様子を見かけると、筆者は「受験は絶対じゃないよ。つらかったらやめてもいい」と声をかけてきた。少しでも気持ちを軽くしてあげたいという思いからの言葉だった。
しかし、それをそばで聞いていた長男(現在高校1年生)が、ある日「それ、言わなくていいんだよ。『やめてもいい』って言われると、逆に『勉強しなきゃ』って思ってプレッシャーになる。俺は言われてすごく嫌だった」と言った。
長男も自宅学習での中学受験を経験している。当時、筆者は長男にも「無理しなくていい」「つらかったらやめてもいい」と声をかけていた。子どもを追い詰めないようにと思っての言葉だったが、長男はそれを別の意味で受け取っていたようだ。
加えて長男は「やめてもいいことくらい本人も分かってるよ。続けるかどうかは、自分で考えるから、何も言わなくていい」と言い、筆者の言葉が次男にとっては「選択を迫られる重さ」になってしまう可能性を示してくれた。
長男の言葉を聞いて気づいたのは、どうやら筆者は、「受験を続けるのか、やめるのか」を早くはっきりさせたいと思っていたことだ。迷いが続く状態に、親である自分が耐えられなかったのだと思う。「やめてもいい」という言葉は、次男の気持ちを軽くするためではなく、むしろ自分の不安を落ち着かせるための言葉になっていたのかもしれない。
子どものためという思いが嘘だったわけではない。ただその裏には、早く結論をつけたいという親自身の都合が確かにあった。自分では気づかないうちに、思いやりの言葉が判断を迫る言葉になってしまっていたのだ。
この出来事をきっかけに、次男に「やめてもいい」と伝えるのをやめた。何か言葉を足すより、むしろ余計なことを言わないほうがいいと思うようになった。判断や結論は急がせず、日々の積み重ねのほうに目を向けていこうと思っている。
子どものためと思って発した言葉でも、そこに親の不安や焦りが混ざると、まったく違う意味で届いてしまうことがある。声をかける前に、その言葉がどこから出てきているのか、一度見つめ直す意識を持ちたい。
<プロフィール>
野田 茜
2男1女のママライター。2022年、高1長男が完全塾なしで中学受験をし、偏差値(四谷大塚)60半ばの中高一貫校へ進学。現在、小5次男が通信教材を利用し自宅学習で中学受験に挑戦中。自身は中学受験未経験で大学まで公立育ち。中学受験の問題の難易度にまったく歯が立たず、逆に子供に教えられる。「ママ、教えてあげよっか?分かる?」と次男に心配される日々。