大河ドラマ「豊臣兄弟!」第41回は「家康の野望」。天正14年(1586年)5月、豊臣秀吉の妹・朝日姫は徳川家の領国である三河に入り、岡崎城に到着しました。同月14日には徳川家康の本拠・浜松城(浜松市)に到着し、2日後には婚儀が催行されます。朝日姫は徳川家康の後妻となったのです(家康は秀吉の義弟となります)。
9月下旬、秀吉は家康に上阪を命じます。秀吉への出仕を要求したのです。もしこの時、家康が秀吉の命令を拒み、上阪しなかった場合は、秀吉は弟・秀長を先陣として、家康討伐軍を派遣する積もりでした。家康と朝日姫の婚儀が催行された後であってもなお事態は緊迫していたと言えるでしょう。
家康は秀吉の上阪命令を受容しますが、秀吉に初めて出仕するということもあり(上阪して、もし何かあったら)との不安がありました。拘禁、最悪の場合、殺されてしまうかもしれないとの不安があったとしてもおかしくありません。
そこで秀吉から母・大政所を三河岡崎に遣わすとの条件が示されます。家康が上阪している間、人質として母親を徳川領国に下向させると言うのです。これを受けて、家康は上阪を決断します。10月14日、家康は浜松を発しました。一方、大政所は同月13日に大坂を立っていました。そして18日、三河岡崎城に到着します。
大政所の三河入りを確認した後、家康は上阪の途についています。家康は10月24日、先ず都に入ります。そしてその2日後、大坂に到着。家康の大阪での宿所は秀吉の弟・秀長の屋敷でした。秀長が家康の取次をこれまで務めていたため、宿所は秀長屋敷となったのでしょう。
さて、秀吉が母・大政所を人質として差し出したのは、妹の婿となった家康を尊重したためと考えられます。秀長は母を人質として遣わすことに反対したとの逸話もありますが、その事が記述されている史料(江戸後期の儒者・深田正韶編著「稽徳編」)の性格もあり、事実ではないと思われます。
(主要参考文献一覧)
・和田裕弘「豊臣秀長」(中央公論新社、2025年)
・黒田基樹「羽柴秀長の生涯」(平凡社、2025年)
・柴裕之「秀吉と秀長『豊臣兄弟』の天下一統」(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)