大河ドラマ「豊臣兄弟!」第34回は「最強のライバル」。天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)で柴田勝家に勝利し、その勢いでもって一気に勝家を滅亡にまで追い込みました。勝家と共に織田信孝(信長3男)方であった北伊勢の滝川一益も6月下旬には秀吉方に屈服することになります。
織田信雄(信長次男)は弟・信孝と対立していましたが、近江国安土城から信孝のいる美濃国に出陣。信孝の居城・岐阜城をついに攻略しました。兄弟対立の決着がついたのです。信孝は尾張国の内海(愛知県美浜町)にまで連行され、そこで自刃することになります(5月2日)。
信孝や勝家が滅び、一益が屈服したことにより、織田家中で秀吉に対抗してきた勢力は消えました。秀吉の優位が確立されたのです。勝家を滅ぼすまでは秀吉は信雄を擁していましたが、勝家滅亡後には信雄など眼中にないかのように振る舞います。
織田家の諸将と自らの家臣に対し、独自に領国配分を行ったこともそうでしょう(同年5月25日)。天正11年(1583年)6月2日に亡き主君・織田信長の1周忌法要を行ったこともそうです(この法要に信雄は関与していません)。再建された安土城が廃城にされ、大坂城が築城されたことも、信雄から秀吉に権力が移行したことを示すものと言えるでしょう。
この頃の秀吉を「事実上、天下を掌握したといってよい状態」と評する人もおります。しかしそうなると、信雄と秀吉の対立が深まってくるのは必然でした。同年11月には信雄が上方で切腹したとの物騒な風聞が流れています(「家忠日記」)。もちろん、これはデマだった訳ですが、それだけ信雄と秀吉との確執が世に露わになっていたことを示すものと言えるでしょう。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹「羽柴秀長の生涯」(平凡社、2025年)
・柴裕之「秀吉と秀長『豊臣兄弟』の天下一統」(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)