公開中の映画「ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。」は1978年から80年代にかけて日本のインディーズ音楽シーンで躍動した実在ミュージシャンをモデルにした群像劇として注目されている。その中で歌舞伎俳優・中村獅童(53)が演じた役のモデルとなった江戸アケミ(1990年死去、享年36、本名・江戸正孝)を撮り続けたカメラマン・松原研二の写真展が10日から都内で開催される。盟友だった“伝説の男”の話を聞いた。(文中敬称略)
1953年生まれの江戸に対し、松原は3歳下で、今年3月で古希を迎えた。江戸は「じゃがたら」というバンドのフロントマンにして、作詞作曲を手がけるボーカリスト。パンク精神にアフロビート、ファンク、レゲエ、ブルースなど多様な音楽性が渾然一体と絡み合った自主制作のファースト・アルバム「南蛮渡来」(82年)は名盤として高く評価された。
松原は「アケミを撮り始めたのは80年5月、東京・吉祥寺でのライブから。カメラマン視点で、被写体として面白いと思った。2回目は(ライブハウス)新宿ロフトでしたが、2~3曲終わった時に会場でバルサン(※煙の出る殺虫剤)を炊いて、消防車を呼ぶ騒ぎになってライブが中止に。もう付き合うのはやめようと思ったんですが、翌年には音楽に専念する…ということで、『タンゴ』(当時タイトル「LAST TANGO IN JUKU」)というファースト・シングルを聴いて、俺はぶっ飛んだ。こんなの聴いたことない、すごいと思って、初めて音楽性を見直した。お客さんもどんどん増え、渋谷の(ライブハウス)『屋根裏』が満杯状態に。『(同店から巣立った)RCサクセション以来』と言われました」と振り返った。
仕事をしながら、ツアーには自腹で同行。「初期の頃が特に面白かった。近距離で撮影できたし、お客さんもステージに上がって一緒に踊ったり、勝手にマイクを取って歌い出す人もいて。メンバーだけじゃなく、(その場にいる)みんなが『じゃがたら』であり、アケミはそれを楽しんでいた」。松原は「解放区」だった現場の様子を証言した。
だが、83年11月の関西ツアー中、江戸の言動に異変が生じた。「京都の精華大学でのライブに向かう途中、湿地みたいな池があるあたりで、アケミは『円盤が出る』とか言い出した。(年末に)都内の病院に入院して(84年3月から)故郷の四国(高知県・中村)に帰って療養。僕は『終わった』と思った。もう復帰は不可能だなと」。松原はそう覚悟したという。
それでも、苦楽を共にした初期のスタッフが中村に通って江戸を東京に連れ戻し、新たに女性コーラスやホーン・セクションも加えた10人以上のバンド「JAGATARA」として86年から本格的に再始動。88~89年には活動のピークを迎えてメジャーデビュー。松原は「復帰したばかりのアケミは体もボテッとして、たまにボーッとしていたが、その頃になると体も引き締まって、ライブになると普段とは(存在感が)違っていた」と円熟期を回想した。
その江戸は90年1月27日に急逝。「カメラマンには『怖いもの見たさ』がある。そうじゃなかったら付き合ってなかったですね。10年間付き合って、本当、優しい人だと思った。自分のことより、他人のことの方がよく分かる人。麻雀もよくやったね。(東京)下北沢の雀荘で。アケミには麻雀の借りがあって、それを返せなかったのが今でも悔しくて…」。松原は感慨を込めた。
映画「ストリート・キングダム」では、リザード、フリクション、ゼルダといったモチーフになったバンドが改めて注目される中、じゃがたらを初めて聴く若い世代もいる。松原は「この映画を見ると、監督のトモロヲさんがどれだけアケミが好きか分かる。田口監督が大のじゃがたらファンで、好きな『でも・デモ・DEMO』も挿入曲になっている。映画のテーマも『お前はお前の生き方をしろ』ということだし、そこはアケミと通じる」と評した。
松原は「じゃがたら全記録 1980―1990 松原研二写真集」(SLOGAN)を今年1月に上梓し、集大成の写真展「JAGATARA 1980―1990 ―Kenji Matsubara 」を東京・渋谷の「NONLECTURE books/arts」で19日まで開催(入場無料、11時~21時)。初日の10日19時から、バンドの初期にプロデューサーを務め、交流の深かった映画監督・山本政志と松原の特別トークも行われる。
松原は「点数は150カットほどになる予定です。写真集に使用していないカットも多数出します」と予告し、「40年以上も前のネガフィルムから、今回、新たにモノクロームの銀塩プリントした写真をご覧いただき、当時の熱気と空気感を少しでも感じていただけたら幸いです」と呼び掛けた。