大河ドラマ「豊臣兄弟」第10回は「信長上洛」。永禄8年(1565年)5月、室町幕府の13代将軍・足利義輝は三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)や松永久通(久秀の嫡男)の軍勢に襲撃されて、落命しました。義輝の弟・覚慶(後の15代将軍・義昭。以下、義昭と記述)は当初、近江国に逃れ、そこから幕府再興に向けて運動・奔走していきます。義昭は越後の上杉輝虎(謙信)や越前の朝倉義景、近江の六角氏に期待していましたが、彼らは様々な事情から義昭を奉じて上洛することはありませんでした。義昭は尾張国の織田信長にも上洛を促す書状を送っていますが、それに対し、信長は取次の細川藤孝に義昭の上洛に「御供奉」する覚悟であることを伝達しています(永禄8年12月5日)。
信長の書状には「御入洛の儀に就き、重ねて御内書成し下され候」とあるので、義昭方は信長に対し何度も書状を送り、上洛を促していたことになります。しかし、信長の上洛を阻むものとしては美濃国の斎藤龍興がいました。義昭は尾張(信長)と美濃(龍興)の和睦に向けて上使(細川藤孝)を派遣しています。この時、両者は和睦の件を了解したと言います(永禄9年3月)。ところが6月頃になると信長は和睦に対し煮え切らない態度をとるようになります。信長としては美濃斎藤氏が本当に和睦の約束を守るか不安だったのでしょう。義昭は細川藤孝や和田惟政らを通じて信長を説得。これが効いたのか、信長は再び上洛を請け負います。
ところが、信長はまたしても変心するのです。永禄9年(1566年)8月頃のことでした。三好三人衆が斎藤龍興を「調略」(信長上洛を阻んで欲しいと龍興は依頼されたのだろう)していたことから、信長は斎藤氏との和睦にやはり不安を感じ、上洛を断念したのです。この時、信長が無理をして上洛を敢行していたら、斎藤氏に背後を攻撃されて危うい事態に陥っていたことでしょう。信長が美濃斎藤氏を滅ぼして後、永禄11年(1568年)に義昭を奉じて上洛したことは正しい決断だったと言えるでしょう。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子「織田信長」(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人「織田信長」(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)