大河ドラマ「豊臣兄弟」第6回は「兄弟の絆」。永禄6年(1563年)2月、織田信長は居城を清須から小牧山に移し、その後、美濃国の諸城を攻略していきますが、『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が記した秀吉の一代記)には鵜沼の城主・大沢次郎左衛門(基康)を調略したのは秀吉だったと記されています。その事を注進(12月10日)すると、信長は「その方の謀略が優れていたのだろう」と上機嫌だったとのこと。
年も暮れ、新年の正月5日、秀吉は年賀のため清須城に向かいます。その時、大沢も共に連れていました。信長へ挨拶させようとしたのです。秀吉からその事を告げられた大沢は賛同し、清須に参上したのでした。初めての挨拶という事で緊迫感に包まれていたようです。
しかし対面は無事に終わり、明日は退出するという時になり、信長は秀吉を呼び出します。そして「大沢は名高い剛の者だ。いつまた裏切るかも分からぬ。やはり殺してしまわねばならん」と秀吉に大沢を殺害することを告げるのです。秀吉は「敵地にて剛の者を味方にしたのは大沢が初めてにございます。それを理由もなく殺されたのでは、計略をもって敵方の城主を味方に付けることが二度とできなくなりましょう。大沢をお許しあるように」と尤もな反論をするのでした。
秀吉は再三、懇請したものの、信長はそれを受け入れません。秀吉は宿に戻り、ある行動に出ます。大沢を呼んで、身に危険が迫っていることを告げるのです。しかも「貴殿の生命が危うくなっている。この上は自分を人質にして急ぎ逃げられよ」と丸腰で伝えるのです。
『太閤記』によると、大沢は「心得た」と言うと秀吉の胸元に脇差を当てつつ、逃げ去ったとのこと。同書は大沢を豪気とは言え、武士の道を弁えぬ者と批判しています。秀吉は身を捨てる覚悟で人質になっているのに、何も胸元に刀を当てて逃げなくとも良いのに、情を知らぬ男だと後々まで非難されたとのこと。『太閤記』には大沢の逃亡劇について詳しいことは書かれていませんが、自らの身が安全な場所まで来て、秀吉を釈放し去って行ったのでしょう。