大河ドラマ「べらぼう」第31回は「我が名は天」。権勢を誇った老中・田沼意次(1719〜1788年)は天明6年(1786年)8月27日、老中を辞職します。それは突然の辞職だったのですが、その裏には何があったのでしょう。実は意次が老中を辞職する2日前(8月25日)に10代将軍・徳川家治が死去しているのです。8月に入った頃に家治は病となり、江戸城で行われる儀式を欠席するようになります。諸大名が江戸城にて将軍と対面する儀式(月次御礼、毎月15日)を家治は欠席したことがなく、病状の悪化が懸念されていました。
家治の信任ある奥医師が薬を調合しますが、それでも病状は治らず。奥医師は交代となりますが、病状は急激に悪化。よって田沼から毒薬が家治に進上されたのではとの噂も立ちますが、根拠のない俗説・風評でしょう。意次の権勢の根源は将軍(家治)だからです。家治あってこその意次ですし、その事を意次は十分承知していたでしょうから、意次が家治を毒殺することなどあり得ません。後に意次は上奏文を書いていますが(1787年5月15日)、その中で家治が病となった時、家治の意次に対する機嫌が急に悪くなったと告げる人がいたと記されています。意次は家治のご不審を蒙るようなこと身に覚えなしと文中で主張しています。
ところが意次の周囲にいる者が頻りに「職(老中)を辞すべき」と勧めてきたとのこと。よって意次は仕方なしに「病と称して」老中を辞職したと上奏文にあるのです。家治が本当に意次に対し、機嫌を損ねていたかは分かりません。病中にあり錯乱していてそのような態度となったのか。何者かが讒言したため、機嫌を損じたのか。詳細は不明です。だが、意次の権勢の根源が将軍・家治にあったことだけは、意次の上奏文からも分かります。老中・田沼意次の失脚は将軍・家治の死と密接な関係があったのです。家治がもしこの時病死しなければ、家治の機嫌は治り、意次は老中を辞めずに済んだかもしれません。
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)。