大阪・関西万博が開幕し、連日、夢洲会場の状況や問題点が報じられている。その中で、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会が「前衛芸術の祭典」であった点に着目し、当時存在したパビリオン「せんい館」で上映された〝伝説の映像〟にオマージュを捧げた新作の「アート・ドキュメンタリー映画」が7月に会場で上映されることが決まった。都内で行われた試写会で鑑賞し、当時の「芸術と万博」の在り方をたどった。(文中敬称略)
作品名は「EXPO’70 前衛の記憶~アコを探して」。企画・制作は甲南大学(神戸市)人間科学研究所所長の川田都樹子教授で、70年万博を検証する2023 年度の授業「芸術史」の受講学生や、せんい館をデザインした現代美術界の巨匠・横尾忠則らが出演している。7月19日から21日までの3日間、会場内の「関西パビリオン兵庫県ブース」で上映予定だ。
ベースとなったのは、せんい館ドーム壁面の大スクリーンで上映された映像作品「スペース・プロジェクション・アコ」。オーディションで選ばれた「アコ」という役名の女性(1950年生まれの当時20歳)が躍動している。甲南大生たちがアコの足跡をたどりながら、55年前のカルチャーやファッションを再現する場面や、当時を知る関係者の証言や貴重な文献、映像資料も織り込まれている。
川田教授は当サイトに「学生たちが授業で取り組んだのは、EXPO’70の前衛芸術と、その時代とをそれぞれの視点から探究し、深く知ることでした。その中で『せっかくならば、アコ本人に会いたい』と思い始めたのでした」と補足した。
原点となった70年の作品を手がけたのは実験映画の第一人者で、ピーター主演の劇映画「薔薇の葬列」(69年)などで知られる松本俊夫監督(2017年死去、享年85)。同氏が教授を務めた京都芸術短大の教え子だった映像作家の寺嶋真里が今回の新作を監督した。
作中、横尾の存在感が際立つ。今年6月で89歳。70年3月の万博開幕時は33歳で、前年に公開された大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」に俳優として主演するなど、新進気鋭のグラフィック・デザイナーにして時代の寵児だった。
横尾は孫世代になる学生のインタビューに対して「僕は『反博(はんぱく)』。万博には反対の立場で、関わりたくもなかった」と明かす。それでも設計を引き受けたのは「思想的、政治的なことより、それまでできなかった表現ができる」という芸術家としての思いだった。
せんい館は工事中に組んだ足場を撤去せず〝未完成の美〟を表現。当初は反対されたが、建物と一緒に足場も赤く着色してアートに仕上げる手法で理解を得た。横尾も渦中にあった60年代のアングラ文化ではできなかった大規模な表現。「国家や企業」と衝突しながらも前衛的な構想が具現化されていく土壌が70年万博にはあった。
横尾は「文化が爛熟し〝昭和元禄〟と言われた、あのような時代は僕の人生にとって二度と来ない」と回顧し、今回の万博には「70年の精神はかけらもないと思います」と指摘した。
今作に出演した映像作家の万城目純は試写会場で「13歳の時に入った『せんい館』では巨大な女性(※唯一の出演者・アコと推測される)がゴーゴーを踊っている姿が壁に映っていた記憶があります」と証言。漫画界の巨匠・手塚治虫の長男であるヴィジュアリスト・手塚眞は当時9歳になる年で、同館に家族と訪れたものの「素通りした記憶しかない」と語った。
今回の万博では複雑なチケットのデジタル購入方法が物議を醸したが、70年はタバコ店でも万博の入場券が売られていた。男子学生は「当時の人はそれがごく当たり前のことで、今では考えられない」と驚きを示す一方で「70年ならカラーの画像や動画が残り、当時を知る人たちも周囲にいるので、そんなに遠くない歴史だと感じた」と認識する。その通り、せんい館のホステスを務めた女性たちが電話取材で声の出演を果たした。
寺嶋監督は「私は1965年生まれで、70年の万博はほとんど記憶にないのです。企画がスタートして2年半。皆さんのおかげで完成しました。甲南大学が実験的な試みをして、授業としても、学生に対しても、とても良い教育効果を上げられたと思います」と振り返る。
最後に、万博という国家事業において「アコ」という役を担った今年75歳になるはずの女性の消息を記者が問うと、寺嶋監督は「この作品を見てくださる方みんなが『アコ』です」と即答した。