世界的なプロレスラーとして一時代を築いたジャイアント馬場さん(1999年死去、享年61)の命日となる31日、東京・後楽園ホールで「ジャイアント馬場没25年追善~太陽ケア引退試合~木原文人リングアナデビュー35周年記念大会」が開催される。大会実行委員長を務める和田京平氏(70)に、恩師・馬場さんとの「レフェリーの原点」となったエピソードや今大会への思いなどを聞いた。
「お前、リズム感いいな」。馬場さんの一言で、レフェリーへの道が開けた。
「(72年から)全日本プロレスでリング設営のスタッフをしていて、作業しながら踊っていたら、馬場さんが『お前、リズム感いいな。そのリズムでレフェリーやれや』と言ってくださったんです。1回は断ったんだけど、また白羽の矢が立って、2回目の誘いで『じゃあ、やりましょう』と。その時は『なんで、俺なんだろう?』と思ったんだけど、今思えば、馬場さんには見る目があったんだなと。こんな素人のステップだけでレフェリーにさせて、50年もやるとは…。僕も思ってなかったですからね」
74年、全日本でレフェリーとしてデビュー。成人する年から、古希を迎えた今まで現役であり続けたベースには、馬場さんが見抜いた「天性のステップ」があった。
「僕は普通に裁いているんだけど、その〝普通〟が『ステップ』なんですよね。『俺のマネしてみろ』と言っても、『ステップはこうして踏むんだよ』と教えても、他のレフェリーはそれができない。みんな普通の歩き方になってしまう。こういうリズムを覚えたらレフェリングは上手になりますよ」
馬場さんからの「厳格なレフェリーを目指せ」という言葉を肝に銘じた。和田氏は「馬場さんは『これから日本のプロレスは世界一になるから、お前のレフェリングも世界一なんだよ』と言われたことがありましてね。『俺の頃はアメリカに行って修行したけど、これからは逆輸入になるよ』と、外国人レスラーが日本で修行する時代が来ると生前から言われていて、本当にその通りになりましたよ。先見の明がある人だなと思いました」と振り返る。
その一例が、ハワイから94年に馬場さんの元に弟子入りしたマウナケア・モスマン。後にリングネームを太陽ケアと改め、全日本の三冠ヘビー級王者となる。今回、そのケアの引退試合(6人タッグ戦)を裁く和田氏は「元『GURENTAI』のケア、鈴木みのる、MAZADAがいて、相手の3人(秋山準、丸藤正道、小島聡)もみんな縁のある人たちです」と期待を込めた。
再び活況を呈するマット界の熱気を肌で感じている。
「今、プロレス界はものすごく盛り上がってきています。ファン層も全く違ってきていて、若い女性客が増えている。キャーキャー言ってる女の子の中には『ババさんって、だ~れ?』と言う人も少なくないだろうし、それこそ、俺がレフェリーで出て、昔からプロレスを見てる人たちが「キョーヘー!」ってコールをしてくれても、最近見始めた人たちは『なんで、あのおじいちゃんが人気あるの?』なんて、不思議に思うんじゃないかと思いますよ(笑)。時代は変わっていくわけで、それはそれで、いいことだと思います」
今回の開催日は最初から意図したものではなかったという。
「命日に合わせて会場を押さえたのではなく、たまたま空いていた日が1月31日、馬場さんの命日だった。馬場さんが『俺の(逝った)日にやれ』と言ったんじゃないかと思うくらい、奇跡じゃないけれど、すごいタイミングですよね。おかげさまをもちまして、チケットは年明け早々には完売しました。盛り上がるのは確かですよね。馬場さんの思い出、ケアと木原の思いも詰まって、カード的にもネームバリューのある人が集まった。当日発売の立ち見席も人数が限られていますが、見られるならぜひ見ていただければ」
馬場さんの年を大きく越えた。
「馬場さんは61歳で亡くなった。『まだ若かったのになぁ』と思いますよ。僕はそれを通り越して、70になった。体も重くなるのかと思ったら、最近、調子いいんですよ。倒れる前の調子良さなんじゃないかと思って(笑)。いろんなところに呼ばれるのでありがたいです。動けるうちに動いといた方がいいと思うし、みんなに『俺を呼ぶなら今のうちだよ』と言ってます!」
レフェリー人生50年。まだ通過点だ。