女優の大竹しのぶ(67)が4日、都内で東京国際映画祭・日本映画クラシックス「あゝ野麦峠 4Kデジタルリマスター版」(山本薩夫監督)の上映後に行われたトークショーに参加。同作品の舞台裏、現在の思いを語った。
1979年に公開された同作は、飛騨の寒村の少女たちが、貧しいがゆえにわずかな契約金で野麦峠を越え、信州岡谷の製糸工場へと赴いた明治後期が描かれる。厳しい労働と苛烈な人間関係に耐えながらも健気に生き抜いた女工たちの不屈の青春群像劇で、社会派作品ながら異例のヒットとなった。山本茂実のノンフィクション「あゝ野麦峠」を原作とする感動大作が、4Kデジタルリマスターで甦った。
病に苦しみ、最後は故郷の景色を目にしたところで命尽きた主人公・政井みねを演じた大竹。「長い上映時間(154分)だと思うので、もしお手洗いに行きたい方とかがいらっしゃったら、それがちょっと心配なんですけども」と前置きして「この映画を見に来てくださって本当に嬉しく思っています。山本薩夫監督のことを『さっちゃん先生』と私は言っていたんですけど、さっちゃん先生がどんなに喜ぶかと思うと胸がいっぱいです」と挨拶した。
みねが息絶える秋のラストシーンは、撮影では最初のシーンだった。大竹は「秋の紅葉の中でみねは死んでいくというイメージが監督の中にありました。準備でクランクインが遅れて、冬の雪山がメインなので、そこから1年後の秋というわけにはいかず、先に秋のシーンを撮らざるを得ない状態でした。だからまだ工女さんの仲間たちと生活するシーンを撮る前に、『ああ、飛騨が見える』と言って死んじゃいました」と振り返った。
4Kデジタルリマスター版を鑑賞した際、冒頭に映るテロップに心が動いた。撮影に協力を受けた町の名前などが流れ「本当にたくさんの方にお世話になりました。今更ながらお礼を言いたい」と話し、「90年に一度ぐらいの暖冬で雪がない年だったので、雪を求めて北上していったんですね。町や村ごとにたくさんのエキストラの方が必要になり、少女ばかり集めるわけにはいかないので、少女が山を登っていく設定なんですけど、よく見るとおじいちゃんも松明を持っている。その町に少女がいない時は、おじいちゃんとかおばあちゃんに協力をお願いして、『こんな格好やだな』とか言われながらも、おばさまとおじさまも一緒に少女の格好をしていました」と語った。
雪山のシーンでは、少女たちが滑落していく。撮影は北海道・十勝岳で行われた。大竹は「落っこちていくのをやりたい、と言うと、監督はすごく怒りました。『そういうことをやっていたら死んじゃうから。死んだら映画ができないから』って。ちゃんとスタントの方でしたけど、悔しかった。若かったのでやりたくて、短いカットは私たちが本当に雪の中を転がりました」と語った。
製糸工場の機械は実際に岡谷で用いられたものを、東宝の撮影所に集め、セットが組まれた。大竹は2週間ほど、繭を煮て生糸を取る「糸取り」という作業に取り組んだ。「毎日朝から晩まで練習して、そうすると本当に繭臭くなって電車乗ると周りの人が『うっ』て言うぐらい臭くなりました。今でも思い出すことができますが、例えようのない、動物のような…あまり思い出したくない。でも慣れちゃいます。体にしみ付いちゃって」。実際に従業していた老婆に習った。「だんだんコツが分かれば楽しくって。みんなより早く、いい糸を作りたいと思うようになる。私は22、23歳ぐらいだったんですけど、(工女の)若い女の子たちが人よりも多く国のために絹を作りたい、と思ったのが分かります」と語った。
撮影現場は過酷だったが、大竹はスタッフから寒さや空腹等を確認されると、常に「大丈夫」と答えていた。記録の君塚みね子からは「あなたが大丈夫っていうと、本当に大丈夫じゃない人が大丈夫って言わなくちゃいけないから、ちゃんと考えて大丈夫って言いなさい」とたしなめられたという。体力の消耗が激しい撮影だが、現場での食事は質素だった。「〝裏版野麦峠〟みたいな感じでした。大体おにぎりが2個とたくあんだけ。ドライバーさんとかが町から買ってきてくれるサバの味噌煮、マグロフレークの缶詰がご馳走で『ちょうだい、ちょうだい』と言っていました。町の人たちがけんちん汁をつくって下さる時があって、その時はすごく幸せでしたね」と話した。
演技で悩んだ際、出演した映画「青春の門」(1975年)の浦山桐郎監督に電話で相談した。「風を感じて、山になって、その大地に立ってと…もうそこにいるだけでいい、そういう役者になりなさいって言われました。上手に見せようとか、見せ場だから頑張ろうとか一切考えなくていい、と言われました。今、思いました」と述懐した。
山本監督は入山、下山の際、照明や録音の機材を一つは必ず手に持ち配慮をスタッフに行う一方、午後5時くらいになると酒が飲みたくてイライラし始めるという。工女の共演者と監督のために歌をプレゼントしたことも覚えている。大竹は「本当にあの時はかわいかったな、と思う。さっちゃん先生に何かしたかった。山本組は山本薩夫さんのために頑張る感じでした。きちんとした思想を持って映画を作る方なので。だからこそ今、この映画が見ていただけることが本当に嬉しいです」と笑顔をまじえながら喜んだ。
山本監督の映画コンテは、大竹の記憶では、新藤兼人監督と同じように、かわらしい絵と説明が詳細に描き込まれ、分かりやすいものだった。1976年の「天保水滸伝 大原幽学」から縁が始まった山本監督は83年に73歳で逝去。「大好きだったので亡くなられたと聞いたときはもう号泣しました。女優さんにも愛されたのは、やっぱり作品が素晴らしいからだと思います。優しかったし、頑固だし。さっちゃん先生と一緒に天気待ちをよくやってたんですけど、本当に宝物の時間でした」と語った。
大竹が飛躍を遂げた70年代後半の回顧を求められると、「野麦峠」の序盤、工女たちの歩く足が映る場面を挙げた。「最初にみんなが歩いてる足が映ったときに、これが70年代の女優さんたちの足、素晴らしいと思いました。ちょっと太くて、ちゃんと筋肉があって。今の女優さんたちの足ってすごい細くて綺麗だけど、やっぱりリアリティがある時に私は生きてたんだなって、そういう映画を撮ってもらってたんだなって、すごく幸せだった。撮影部さん照明部さん、録音部さんの名前もお顔も全部覚えているし、そうやって、みんなで映画を作る時代に遭遇することができました。あの時代は本当に良かったと思う」と語った。
最後は改めて「昔の映画がこんなにも美しい形になり、娘も前のを見てたんですけど、綺麗になってすごくびっくりしていました。山本監督がどういう気持ちでこの映画を作ったのか、少しでも皆さんの心に触れることができたら本当に嬉しい。監督とスタッフに代わってありがとうと言いたいです。本当にありがとうございました」と述べ、トークショーを締めくくった。