NHK大河ドラマ「光る君へ」第19回は「放たれた矢」。藤原伊周の弟・隆家が放った矢が、牛車に乗る花山上皇(花山院)をかするという出来事が描かれていました。伊周が没落した、いわゆる「長徳の変」(996年)の発端となった出来事ですが、どのような背景があり、起こった事件なのでしょうか。
長徳元年(995)4月には藤原道隆が、5月にはその弟・道兼が次々と病により死去します。関白を務めていた彼らの死を受けて、5月11日には、道隆・道兼の弟・藤原道長が内覧(天皇に奏上すべき文書をまず内見して政務を処理する)となります。道長は権大納言でしたが、内覧になることにより、政権の中枢に踊り出たのです。
これは、時の一条天皇の母であり、道長の実姉・詮子の意向が強く働いていたと思われます(6月、道長は右大臣に就任)。道長の出世を快く感じていなかったのが、亡き道隆の嫡男で関白の座を狙っていた伊周でした。同年7月、道長と伊周は陣座(公卿が政務を評議した場)において、激しく口論し、それは闘乱と評されるほど激越なものだったとされます。
そして7月には、道長と隆家(伊周弟)の従者が七条大路にて乱闘する事件が起きています。そのような経緯がありつつ、年明けに起こったのが、長徳の変でした。当時、花山院は亡き藤原為光の娘(四女)のもとに通っていたが、伊周は自らの相手である為光三女と花山院が深い関係にあると誤解。隆家の従者が花山院に弓を射かけるという事件を引き起こしたとされます。
しかし、当時の史料からは、花山院の従者と、伊周・隆家の従者が為光の邸で闘乱したことが窺えます。闘乱の結果、花山院に従っていた童子2人が殺害され、その首は持ち去られたとのことです。この事件の背景には政敵の道長の関与などは見られません。2月5日には、伊周の家司(家僕)の邸が検非違使によって捜索されています。伊周・隆家兄弟は後に左遷されることになりますが、道長が手を加えずとも、彼らは自滅していったと言うことができるでしょう。