NHK大河ドラマ「光る君へ」第5回目は「告白」。藤原道長が、まひろ(紫式部)の母を殺したのが、自らの兄・道兼であることを知る回でした。しかも、その事を父の藤原兼家も知っており、道兼の殺人をもみ消していたのです。まひろの母を殺した事に怒る道長に兼家は「道長にこのような熱い心があるとは思わなかった。これで一族の将来は安泰。今日は良い日じゃ」と喜ぶのでした。そんな父の言動に、道長は更に驚愕したのです。
ちなみに、花山天皇が即位した頃(984年)、紫式部の父・藤原為時は、式部丞・蔵人に任命されています。紫式部はまだ10代にもなっていない頃と推測されます(式部の生年は諸説あり)が、父の補任を喜んでいたのではないでしょうか。この頃の式部がどのような生活をしていたかは不明です。
さて、ドラマにおいては、権力を手中にするためには手段を選ばぬ冷血漢として描かれている兼家。兼家の「非情」さは、今回のドラマには描かれていませんが、次兄・藤原兼通との権力闘争を通じて育まれてきたように筆者は感じます。兼通も兼家も、その母は共に藤原盛子。同じ母から産まれた実の兄弟です。が、この2人は出世を巡って、激しく争うのです。
当初、出世競争は、弟の兼家が優勢でした。安和元年(968)、兼家は兄を超えて、従三位にまで昇り、翌年(969)には中納言となるのでした。これは、長兄・藤原伊尹(母は盛子)の引き立てがあったからと言われています。伊尹が亡くなった年(972年)には、兼家は大納言に昇進していました(次兄・兼通は権中納言)。ところが、兼通に奇跡の大逆転が起こります。兼通は、円融天皇の母・安子(兼通の妹)の「関白は兄弟順番に就任させよ」という書き付けを所持していたのですが、それを「錦の御旗」にして、円融天皇に迫り、内大臣そして関白にまで出世するのです。兄・兼通は弟・兼家の出世を妨害。それは、兼通が亡くなるまで続くのでした。
貞元2年(977)、死期迫る兼通は、自身の後任を実弟ではなく、従兄・藤原頼忠とするよう帝に嘆願、認められるのです。これは、兼家が、兼通のもとに見舞いにも来ず、邸を素通りし、素早く宮中へ向かい、自身の栄達を画策しようとしたことに怒ったためだと言われています(平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』)。次兄・兼通の死後、着実に復権を果たしていった兼家ですが、一度掴んだ権力や栄達というものが儚いことをよく知っていたのでしょう。儚いからこそ、それを二度と手放すまいとして、必死になっていたのではないでしょうか。