大相撲で外国出身初の横綱となり、格闘技やプロレスでも活躍した曙太郎さん(享年54)が4月上旬に心不全のため死去したことが11日に報じられた。記者は2011年7月から10月までデイリースポーツ紙面に「第64代横綱の真実 曙道」と題した全60回の連載企画を担当。曙さんのプライベートな空間で、その半生に去来する様々な思いを聞いた。
取材場所は、山手線の某駅から徒歩15分ほどの高台にあった都内の自宅エントランスのロビー。「よろしくお願いします」。曙さんは礼儀正しくお辞儀すると、その巨体をソファーに深く沈めた。
「東京で生まれて初めて雪を見ました。1988年の2月でした」
故郷の大先輩である元関脇・高見山が創設した東関部屋に入門。同年春場所で初土俵を踏むことになるのだが、ハワイを発って9時間後に到着した羽田空港から部屋に向かう道中で目にした「雪」が忘れられないのだという。初体験の雪は「右も左も分からない世界」の入り口だった。
部屋では当初、お客さん扱いだったが、3日目の早朝、布団に入っていると、兄弟子に「いつまで寝てんだ!」と蹴飛ばされた。「親方に『つらい』なんて言ってたら、『甘いんだよ、バカヤロー!』ってよく怒られた。大部屋の電話が3回以上鳴ったら、電話で殴られたからね。鳴った瞬間、電話番じゃなくても、一番下の者は先輩が寝ている中、ダッシュで受話器まで走った。2回以内に取らなきゃ殴られる。親方が名前を言わずに『おい!』って言うと、全員が走るからね。今の子たちに見せてやりたいですよ」
その〝電話番〟時代のエピソードが面白い。「最初に電話に出る時には『もしもし、亀よ』と言うように兄弟子に教えられた。それで、電話がかかってくると受話器を取って『もしもし、亀よ』って返事してました。でも、他の人が電話に出た時は『亀よ』なんて言ってない。『あれ?これ違うな』と気づいて『もしもし』だけに直した。そうやって1か月ちょっとで普通に日本語の会話ができるようになりました。毎日毎日、人の名前や新しいフレーズを覚えて。“勉強”とかじゃなく、日本語を覚えないと生きていけないから。必死でした」
そんな新弟子時代のエピソード。今の時代に照らせば〝問題〟になるかもしれないが、「かわいいから〝かわいがり〟。〝いじめ〟じゃないんです。何も言われなくなったら期待されてないということだから」。角界のしきたりにも順応して出世街道を突き進み、若貴兄弟の好敵手として90年代の相撲人気をけん引。96年に日本国籍を取得した。
複数回に及ぶ取材も半ばを過ぎたあたりで曙さんから提案があった。「次は外でアメリカン・ブレックファスト食べながらやりましょう」。東京・広尾にある米軍管轄地のホテルに取材場所を移した。妻クリスティーン麗子さんと最初の出会いから約10年後にその場所で再会し、交際することになった想い出の地でもあった。
盛夏だった。曙さんは、ホットパンツから長い足を出した長身の少女を連れてホテル内のレストランに現れた。「僕の娘ケイトリン(麗奈)です。98年生まれの(当時)13歳。こんなに大きくなりました」。父の顔になっていた。そして、日本人になっても「米国式朝食」は心のオアシスだった。
「ヘルニアやって、ヒザも痛め、優勝も止まってしまうという苦しい時があって、その当時は英語で会話ができて、ホッとできる存在が必要だった。その相手が彼女だった。ふだんは日本語でしゃべっていても、本当の気持ちの細かいニュアンスまでは伝え切れない。やっぱり英語で話す方がどれだけ楽か。日本にいても、たまにアメリカン・ブレックファストを食べることによって気持ちが落ち着くんです」
ソーセージやベーコンエッグなどを口にしながら話は弾んだ。9月、最後の取材で「夏が終わる」という話から、曙さんは「僕が日本で最初に覚えた歌」として井上陽水&安全地帯の「夏の終わりのハーモニー」を口ずさんだ。異境の地にあって、その繊細で美しいメロディーに心が和んだという。曙さんは「これ、俺の結婚式でも歌ったもんな」と笑った。ちなみに「若貴兄弟から(当時106歳の)『きんさんぎんさん』まで出席した」という伝説の披露宴だ。
曙さんは「3つの夢」を掲げていた。1人でフルマラソンに挑む「曙マラソン」、大相撲とは別にスポーツとして競技性を追求する「プロ相撲」の旗揚げ、自身も調理を担当する「ステーキハウス」の開店だ。
連載終了後も、3つ目の夢である「ステーキハウス」絡みで、1・5ポンドの「曙ステーキ」がメニューとしてある有名店「リベラ」の目黒店、荻窪駅の線路沿いにオープンした「アケボノステーキ」(現在は閉店)に同伴した。「格闘家が食事制限したら体おかしくなるんですよ」。曙さんは豪快に肉を頬張った。そんな全てが「曙道」だった。