戦国武将・織田信長というと、読者のみなさんはどのような印象をお持ちでしょうか。比叡山延暦寺の焼き討ちを始めとする数々の虐殺の実行から、冷酷無比で血も涙もない冷血漢、怖い人というイメージを持っている人も多いかもしれません。そんなイメージを持たれている信長が泣いたと聞くと、意外に感じる人が多いと思います。そう、信長は決して冷血漢ではなく、血が通った武将、1人の人間だったのです。
天文23年(1554)1月24日、信長は駿河の今川方が立て籠っている材木城(愛知県東浦町)攻めを敢行します。この城は、特に南が攻めにくい構造となっていました。南は深い空壕となっていたからです。信長は最も攻めにくい南側を受け持つことになります。
城攻めが始まり、信長の旗本衆(若武者)が次々に突撃していきます。突き落とされては這い上がるという勇猛さで突撃したこともあり、死傷者は数知れぬという状態でした。信長はその時、堀端にいたのですが、鉄砲を放ち、援護射撃します(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』)。
これは実戦において信長が鉄砲を使った初めての事例と言われているのです。しかも単に鉄砲を放っただけでなく、取り替え取り替え、交互に連続射撃をしているのでした。
信長の命令により、更に武者たちが堀へ取り付いていきました。激しい攻撃により、籠城方にも死傷者が増してきます。そしてついに織田方に降伏するのです。しかし、織田方の打撃も大きく、信長の小姓衆に死傷者が多く「目も当てられぬ有様」だったといいます。信長は本陣にいたのですが、小姓衆が死んだと聞くと「その者も討死したのか」と涙を流したと『信長公記』には記載されています。
主君・信長のために命を惜しまなかった若き家来たち。そして、家来の死に感涙する信長。家来たちも信長のカリスマ性をよく知っていたからこそ、身を投げ打って戦ったのでしょう。涙を流す信長を見て、生き残った家臣たちも、信長に更に惹かれたことと思われます。