NHK大河ドラマ「光る君へ」第3回は「謎の男」。円融天皇(坂東巳之助)の早期譲位・退位を図る藤原兼家(段田安則)の姿が描かれていました。兼家の娘・藤原詮子(吉田羊)は、天元元年(978)に入内し、円融天皇の女御となり、天元3年(980)に懐仁親王(後の一条天皇)を生んでいます。懐仁親王は、兼家にとって孫に当たります。兼家が、孫の懐仁親王の即位を望んでいたことは本当ですが、ドラマのように、円融天皇の食事に毒を盛ってしてまで、それを果たそうとしたというのは創作です。
平安時代の歴史物語『栄花物語』には、円融天皇が関白・藤原頼忠の娘(藤原遵子)を先に中宮としたことに兼家は怒り、門を閉ざし、息子たちも儀式に参列させない処置をとったことが見えます。円融天皇は、詮子にも使者を送りますが、その返事はほとんどなし。そうした有様だったので、天皇は詮子に気兼ねし、懐仁親王の袴着の儀(幼児が初めて袴をつける儀式)を急がせたといいます。
同書には、帝は詮子を疎かにしたというよりは、関白・藤原頼忠を憚って、その娘を中宮にしたのだと記されています。 兼家は袴着の儀は、東三条邸(兼家の邸)で行うことを考えていましたが、円融天皇が「私邸ではなく、宮中で」と仰せられたこともあり、懐仁親王とその母・詮子も宮中に参上することになったのです。円融天皇は自らの皇子を見て「美しい。後嗣となるべき、立派な皇子を産んだ女御(詮子)を疎かにしては罰を被るであろう」と詮子に語ったそうです。
ところが、それに対する詮子の反応は冷たいものであり、天皇は残念に思われたとのこと。それでも、天皇は皇子に対し、様々な贈り物をされたのでした。儀式は滞りなく済み、皇子と詮子は宮中から退出することになります。天皇は引き留めますが、詮子は「もう少し、時を待ちまして、心が長閑になりましてから参りましょう」と言い、皇子と共に去ってしまいました。同書には、天皇は常に皇子のことを心にかけて、恋しく思っていたとあります。
天皇は次第に皇子に譲位したいとお考えになったようです。兼家が皇子の立太子を覚束なく思っていたことを、天皇がとても心苦しく感じていたとも『栄花物語』は記します。円融天皇の譲位のお考えが「兼家の抵抗に屈服したから」という説もあります。
また、かなり以前(詮子が懐妊した頃)より、譲位の気持ちを有していたとの見解もあります。いずれにしても、天皇が皇子を可愛いく思われていたことは事実であり、兼家や詮子がそのお気持ちをうまく「利用」しているように『栄花物語』の記述から私は感じます。