プロレスラーとして1970-80年代に国内外のリングで活躍した「キラー・カーン」こと小沢正志さん(享年76)が12月29日に動脈破裂で死去した。居酒屋店主であり、歌手・三橋美智也さんに憧れ、恩師の落語家・立川談志さんに後押しされて「歌い手」としても活動した不世出のレスラーの〝アナザーサイド〟を紹介する。
一般的には「カーン」のリングネームで知られているが、そう呼ぶと「カーンじゃない、カン!」とダメ出しされたので、どうしても「カンさん」と呼んでしまう。
カンさんとの初対面は97年。記者は当時住んでいた神戸から一ファンの客として西武新宿線・中井駅(新宿区)近くにあった第1号店にうかがった。居酒屋とスナックを〝二刀流〟で営業していた。92年に26歳で亡くなったシンガー・ソングライターの尾崎豊さんが89年頃から常連だった中井の店で、メニューとなった「尾崎豊が愛したカレーライス」を食べた。絶品だった。その後、新宿歌舞伎町、新大久保、西新宿と店舗を移しても、この名物カレーは継承された。
カレーライスの前に、まずは「お勧め」だという「生グレープフルーツサワー」を注文。カンさんは「余計なものは混ぜてない。グレープフルーツ丸ごと一個しぼって。僕も毎日飲んでるから、ほら見て、お肌スベスベ!」と195センチの巨体をかがめながら顔を近づけ、満面の笑顔で自身のほおをなでた。
2002年以降はプロレス担当記者として取材で会うことになり、若き日の夢だったという「歌手」としてのボランティア活動に帯同する機会があった。
カンさんは04年から音楽事務所に所属し、同年5月に都内の介護老人養護施設で本格的な歌手活動をスタートさせた。「リンゴ村から」(三橋美智也)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)、「山の吊橋」(春日八郎)、「逢いたかったぜ」(岡晴夫)と自ら選曲したレパートリーを熱唱。マイクを手に「金はないけど、歌で喜んでもらえたらありがたい」と感無量の表情を浮かべた。05年4月にCD「ふるさと真っ赤っか/上越線は男の鉄路」(クラウン)で念願の歌手デビュー。「僕はまだ青二才。58歳の新人歌手として一歩一歩、頑張ります」と意欲的だった。
ずっと、歌手になりたかった。31歳の時、談志さんの紹介で三橋さんの前で歌を披露。「リンゴ村から」などを歌い、三橋さんに「オレんとこへ来ないか」とありがたい言葉を掛けられたが、プロレス界の名伯楽カール・ゴッチさんとの先約があり、メキシコに旅立った。〝リンゴ〟ではなく〝リング〟を選び、海外マットでの快進撃が始まる。運命に逆らって歌手の道を選択していれば、81年5月2日に米ニューヨークで大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った衝撃の事件はなかったかもしれない。
その舞台裏に登場する談志師匠との思い出も聞いた。
「アトランタの試合に師匠が来てくれてね。『お前の女房を見に来た』って。俺はアメリカ人の妻と新婚でね。フロリダにあった俺の家にも来て、人食いザメのいる海に飛び込んで平然と泳いでた。師匠がサメに食われてたら俺の責任でしたよ(笑)。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで初メーンが決まった時には会社(新日本プロレス)よりも先に談志師匠に電話で報告した。その後、帰国して1人で迎えた正月、師匠に『小沢、どうせ1人だろ。うちに来い』と練馬のお宅に招かれて、布団まで敷いてくれて『小沢、寝ろ!』って。『銭湯は裏切らない』と言いながら俺の背中を流してくれたり。それから毎年、正月は談志師匠と一緒に過ごしました」
そんな恩師との交流から「立川談志師匠直伝の牡蠣バター」なるメニューも生まれた。談志さんは歌舞伎町に移転した「居酒屋カンちゃん」でも客席を回って「コイツ、小沢っていうんですよ。かわいがってやってください」と頭を下げ、発売されたCDを何百枚も買って周囲に配ったという。その恩師は11年11月に75歳で死去。同年暮れ、カンさんに店で話を聞いた。
「出会って41年間、あんなすごい人が何で俺なんかによくしてくれたんだろって今も考えるんですよ。『小沢、歌え!』って言われた時に、俺、何でも歌えたからかな?」。遠い目をするカンさんに、遠慮しつつも離別した家族のことを尋ねると、深いため息をついた。沈黙の後、寂しげな表情で「その話は、言いっこなしでさぁ…」と、つぶやいた言葉が今も耳に残っている。
コロナ禍の中で店を畳んだが、今年3月、西新宿に「カンちゃんの人情酒場」をオープン。再起を果たしたものの、年の瀬に旅立った。この正月は、久々に談志師匠と再会しているのだろうか。