大河『家康』豊臣系諸将と小山会議を開いた家康の考えとは 鳥居元忠は討死…忠臣と語り継がれる男 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(clam/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第42話は「天下分け目」。今回は、有名な小山会議(評定)が描かれました。慶長5年(1600)、会津の上杉景勝は領国にあり、諸城の修築や道路・橋の普請、武器の調達に邁進していました。上杉氏のこの動きを「謀反の兆候では」と捉える大名もいて、家康(松本潤)にもその事は報告されます。家康は上杉景勝に上洛を求めますが、最終的に景勝はそれを拒否。かねてより、上杉討伐の意思を持っていた家康は、ついに出陣に踏み切るのです。

 同年6月16日、家康は大坂城を出て、伏見城に入ります。そして、伏見城の留守を家臣の鳥居元忠らに命じます。東国に向けて進発した家康は、7月2日には江戸城入り。同月7日には、家康は「喧嘩口論の禁止」「味方の土地における放火・濫妨の禁止」など会津(上杉氏)攻めに備えて15ヶ条の「軍法」を制定しています。その会津攻めは、7月21日が予定されていました。

 7月19日、家康は後継者の徳川秀忠を会津に向けて先発させます。しかし、その19日か翌日、家康のもとに、上方にある三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)が家康を弾劾する檄文(誓紙への違反・伏見城に軍勢を入れたことなど)を諸大名に発したことが伝達されます。石田三成と毛利輝元も反家康の態度であることも上方から伝えられました。ところが家康はこの報を得つつも、会津方面に向けて、江戸城を出ます(7月21日)。

 7月25日、家康は自らに従っていた豊臣系諸将(福島正則・池田輝政・山内一豊・黒田長政・浅野幸長ほか)を集め、小山(栃木県小山市)で会議を開きます。有名な「小山評定」です。

 会津攻めは、家康と上杉氏の私戦ではありませんでした。豊臣政権の上洛要請に従わない上杉氏を成敗するための公戦だったのです。家康が上方での変事を理由に、勝手に豊臣系諸将に命令(例えば、会津攻めを中止して、上方へ向かえ)を下すことはできません。また、家康と豊臣系諸将との間に主従関係はありません。よって、今後の動きについては、それら諸将と相談する必要があったのです。小山での会議では、このまま会津攻めを行うか否かが議されました。

 その結果、会津攻めの延期と西上することが決定されるのです。家康は会議前から西上する腹を固めていましたので、目論見通りに進んだことになります。「小山評定はなかった」とする見解もありますが、家康や諸将が小山に集まっていたことは書状により確認できることから、私は小山評定はあったと判断しています(拙著『家康クライシス』ワニブックス)。

 評定の翌日(7月26日)、豊臣系諸将は西上を開始。家康は8月4日に小山を進発し、同月5日には江戸に着いています。

 しかし、その頃には既に、鳥居元忠らが守備する伏見城は落城(8月1日)していました。小早川秀秋や島津義弘ら西軍により攻撃(7月19日)を受け、落城したのです。

 鳥居元忠は、奮闘するが、討死しました。享年62。少年の頃から家康に仕え、ついに戦死した元忠は「忠臣」として語り継がれることになります。

 浅井長政の菩提を弔うために、豊臣秀吉が建立した京都の養源院には、伏見城で自害した徳川の将兵の血で染まった廊下が天井に上げられて「血天井」として残っています。

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