落語家デビューして15年。月亭方正がこのほど、よろず~ニュースの取材に応じた。タレント活動を続けながら、東西落語家との落語会、独演会などを積極的に開催している。落語、テレビに対する思いを語った。
11月18日に大阪・天満天神繁昌亭で林家菊丸、桂かい枝との三人会を行う。普段からネタおろしの会などを一緒にする間柄。「大体、(料金は)3000円なんですけど、自分たちを追い込むためにも今回は4000円に設定しました。値段で変わるのかっていうと、そうではないけれど、その価値があるものをお見せしないといけないと思っています」と意気込みをのぞかせた。
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」などで人気や知名度はあったが、自分の中で「テレビだけ出て、芸がない」と行き詰まっていた時に落語と出会った。40歳を迎えるにあたり「人生のラストスパート、どうしよう」と考えていると、東野幸治から古典落語を勧められ、魅力に取りつかれた。
落語家になる自信はあったという。「落語をいろいろと聞いて、やっぱり面白い人が一番強いんじゃないかと。人間のウリだったら勝てるかな」。まったく縁のない世界。テレビ番組の共演者で遊び仲間だった月亭八光に相談したところ、父・月亭八方の勉強会を紹介されて参加するようになった。「それが師匠との初めての、しっかりとした出会いです」。2008年5月11日に八方の落語会で客演としてデビューすると、その日の打ち上げで月亭方正の名前をもらった。「3次会で〝月亭〟をくださいって言ったら、師匠が〝ええよ〟って」。居酒屋のテーブルに敷く、紙のランチョンマットの裏に「月亭方正を弟子にします」と一筆書いてもらい、正式に弟子入り。「今でもその紙は残しています。宝物ですから」と大切にしている。
キャリア20年のお笑い芸人が落語家へ転身。東京から関西に拠点を戻した。八方から本気度を認められ、上方落語協会への加入を勧められた。ただ、2009年12月に加入するにあたっては、賛否両論があった。「江戸でも上方でも、賛成派の方は〝よう来てくれた。お前のネームバリューでどんどん落語を広めてくれ〟反対派の方は〝何でこっち来んねん〟と」。それは想定内だった。「協会に入れた、落語ができるといううれしさが勝っていたので。〝何で来んねん〟という方に対しても、本当に何も思っていないです。そら、そうやろって思うし」と振り返った。
落語家デビュー当初は〝お笑い芸人の山崎邦正が落語をやっている〟と色眼鏡で見られていた。2013年1月1日にタレント、落語家とも芸名を月亭方正に統一したが、今でも感じる時がある。「関西では月亭方正の名前はなじんだと思いますけど、関西以外ではまだ、山崎邦正の方が強い。落語ができるのかって、江戸のお客さんは特に思っているのでは」。だからこそ、やりがいを感じる。「関西でもそうですけど、落語が終わった後にオセロのように(白黒が)変わっていく、もう、あれが快感で」。客席の空気が一変して、自分の落語を見入ってくれたことに喜びを感じる。
現代は誰もが意見を発信できるネット社会。ポジティブな声もあれば、ネガティブな声もある。「エゴサーチはしますね。〝お前、落語ができるのか〟〝嫌だとか〟とかワーッと書いてある。関東の人が多いですね。まだ、ガキの使いのイメージしかないみたいで」。批判的な意見を目にしても落ち込むことはない。「テレビで鍛えられました。24、25歳の時に〝面白くない〟〝滑り芸〟と言われて、その時に傷ついて。でも、そこからはい上がってきているから、少々何か言われても、何も思わないです」。若手時代に身についた打たれ強さが生きている。
親交のある大好きな落語家の立川志の輔から「方正君は努力している。センスもある。勇気もある」という言葉をもらった。「すごくうれしくて。一番、うれしかったのは勇気があるですね。師匠が僕を見て言ってくれた言葉だと思うんですけど」と表情を崩した。大きな励みと自信となっている。
「落語を始めてから(神社、寺などでの)願い事は変わっていません。家族の健康と立派な噺家になれますように、の2つ。これからも変わらないです」。理想の落語家へ。精進を続けて客席に笑いを届ける。
◆月亭方正(つきてい・ほうせい)1968年2月15日生まれ、兵庫県出身。NSC6期生。1989年に「TEAM-0」というお笑いコンビで東京進出。1993年「TEAM-0」解散。ピン芸人として活動を開始。月亭八方に弟子入りし、2008年5月に八方の落語会に客演として落語家デビュー。打ち上げの席で八方から正式に「月亭方正」の名をもらう。2009年12月に上方落語協会加入。タレント活動では本名の山崎邦正だったが、2013年1月1日より芸名を「月亭方正」に統一した。落語家、タレントとして舞台、テレビで活躍している。