バラエティー番組『進ぬ!電波少年(以下・電波)』(日本テレビ系)の企画「電波少年的東大一直線」(2000-01年)でブレイクしてから20年以上。タレントの坂本ちゃん(本名・坂本恭章)は芸能活動を続けながら、近年、独自の色彩感覚のあるイラスト作品をSNSなどで精力的に発信している。
作品のモチーフは「自分の頭に浮かんだ顔」や「ある著名人をイメージさせる人物画」など。好きな原色を強調したポップアート的な作風だ。「キース・ヘリングが好きなんです」。1980年代、米ニューヨークを拠点に活躍し、90年に31歳の若さで早世した世界的アーティストの名を口にしたが、絵を生業(なりわい)としているわけではないので、自分のことを〝イラストレーター〟とは名乗らない。ただ、芸人生活の中で必然的に起きた行動だった。
「電波」の企画終了後も08年頃まで多忙な日々が続いたが、〝電波景気〟がフェードアウトし、徐々に仕事が減り始めた10年頃から「絵の時代」が始まった。
「私はタレントとして『運』だけで来たと思っていて、しゃべりも達者ではない。仕事でダメ出しされて、家に帰ると実家からお金の催促をする留守電が入っていたり…。そんな日々の不安を一時でも消すために絵を描いた。仕事が減って家にいる時間が長くなったこともありました」
絵を描く動機を後押しする場所もできた。その頃、ラジオ番組の仕事を通じて知己を得た大手レコード会社のディレクターの紹介で、シャンソン歌手・ソワレが営む新宿ゴールデン街のバーで店番のアルバイトを始めた。現在も勤務する店で毎週金曜夜8時から明け方近くまで、カウンター越しに対面する酔客の顔を描くようになり、200点以上の作品を18年に初個展で披露したこともあった。
いずれも、商品化することはなく、描きたいから描くというアマチュアリズムに貫かれているが、今年、初めて「仕事」をした。親交のある兄弟デュオ「狩人」の高道が、尾道イサオ、おりも政夫(フォーリーブス)と組んだトリオユニット「スリージージーズ」の新作CDのジャケットを描いたのだ。「自作の絵が初めて商品になった。うれしかったですね。人との出会いでいい方に絵も変わってきている。絵はゼロから自分が描いて、ほめてくださる人がいるのがうれしくて」
「人との出会い」といえば、「電波」の企画で共演した東大出身の家庭教師「ケイコ先生」が思い浮かぶ。
「私は〝東大受験〟と言いながら、『8+5』くらいの計算でも指折り数えるレベルだったんですけど、ケイコ先生は『絶対、大丈夫』と繰り返し言ってくださった。その素敵な暗示のような言葉が体に染みついて、今も力を与えてくださっています。東大は足切りで受けられなくなった時は彼女に申し訳ないという気持ちが強かったですが、次はどこでもいいから受けるという話になり、何校か受かった中から日大の文理学部に進学しました。当時、30代半ばでした。山梨では日大の付属高校で内部進学できなかったので運命を感じます。残念ながら仕事が忙しくなって通えませんでしたが」
浪曲師・春野恵子として独自の道を歩むケイコ先生。「今でも『坂本ちゃんは家族みたいなものだから』と言ってくれる。感謝ですね」。そう語る〝教え子〟の自身は女優・タレントの岡元あつこ、フリーアナウンサーの荒木千恵との3人でYouTube番組「熟女会議(仮)」を配信中で、27日にはトークライブを新宿ロフトプラスワンで開催。「私の人生、女性に助けられている」と振り返る。
テレビの露出が減っても、日本テレビ系「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」のスポーツ企画に出演すると、21年には「太った」というだけでネットニュースの話題になった。「その時は88キロでしたが、今は90キロくらい(笑)。食欲と睡眠欲がすごいんです。そこは自然体で」。電波時代の残像が視聴者の記憶に残っているだけに、そのギャップに反響があった。
今年6月には前立腺肥大症の手術を受け、入院生活を画像と共にX(旧ツイッター)で発信。「この症状に悩んでいる人のためになるかもしれないと。入院は1週間ほどでしたけど、下半身麻酔をした時の不安感は人生初で汗だくでした。手術中に好きなCDをかけていいということで、槙原敬之さんのCDをかけさせてもらった。『電波』の勉強中につらかった時もマッキーの音楽に助けられたので」。今も「電波」はつながっている。
「高校生くらいの感覚のまま年齢だけ重ねてしまった感じです。でも、人生って、突然、何が起こるか分からない。年齢には抗えないですけど、その不安も楽しまないと。絵を描くのも、相手がハッピーになってもらいたいから。そうすると、自分もハッピーになれる」。本人には肩書きへのこだわりはないが、〝絵描き芸人〟として地道に筆を手にする日々はこれからも続く。