NHK大河ドラマ「どうする家康」第30話は「新たなる覇者」。信長死後の混乱と、着々と勢力を付けていく秀吉(ムロツヨシ)、そして家康(松本潤)と北条氏との戦いが描かれました。
本能寺(1582年6月2日)で信長が家臣の明智光秀に討たれたことを聞いた家康。当初は、上洛し、信長のあとを追い、切腹すると言っていましたが、家臣などの諫言により、翻意。いわゆる伊賀越をして、6月5日には、無事に領国の岡崎に帰還することができました。
領国に帰った家康が、まずやろうとしたこと。それは、信長を殺した明智光秀を討つことでした。弔い合戦をしようとしたのです。駿河・遠江国の諸将にも、出陣の用意をするよう伝達。そして、いよいよ、6月14日、家康も岡崎を出馬するのです。が、そこに驚くべき情報が届きます(6月19日)。それは、織田重臣・羽柴秀吉からの報せでした。秀吉は「光秀は既に討伐した。よって、ご上洛には及ばぬ」と家康に要請してきたのです。
山崎合戦(6月13日)において、光秀は秀吉を中心とする軍勢に敗れ、その後、討ち取られていました。光秀が既にこの世にいないのであれば、弔い合戦のしようがありません。ということで、家康は津島(愛知県津島市)から、浜松城に戻ります(6月21日)。
信長の死は、関東甲信にも大きな影響を与えました。上野国(現在の群馬県)にいた織田家臣の滝川一益は、小田原の北条氏の軍勢と戦い大敗(6月19日、神流川の戦い)。本領の伊勢長島城まで逃げ帰ることになります。信濃にあった森長可も、美濃に戻ります。織田家臣・河尻秀隆は、武田旧領の甲斐国を与えられていましたが、国内で国人による一揆が勃発。家康は、家臣の本多忠政を遣わし、秀隆を援助しようとしますが、秀隆は徳川は自分の領土を奪おうとしているのではないかと疑い、忠政を殺してしまいます。
本多忠政の家臣は、当然これに怒り、一揆方と結び、秀隆を討ち取るのです(6月18日)。家康は、この混乱に乗じ、甲斐や信濃に武田旧臣や、徳川重臣(酒井忠次や大久保忠世など)を送り込み、諸所を平定せんとしています。家康も7月上旬には、甲府に出陣。しかし、そこに立ちはだかったのが、小田原の北条氏でした。北条軍2万は信濃に侵攻。そして、甲斐にも目をつけます。そうすると、当然、徳川とぶつかることになりますが、その時、徳川方は一万と劣勢。
勝つのは北条方かと思われましたが、徳川の臣・鳥居元忠は、黒駒(山梨県笛吹市)の戦いで、北条軍を撃破。500余りの北条方の首級を北条の陣に向けて晒したのです。これ以降、北条氏は更に劣勢となり、ついに和睦の提案を家康にしてきます。家康はこれを受け入れ(10月29日)、両者は同盟を結ぶことになったのです。
そうしたなかにあって、中央では、羽柴秀吉の威勢が更に高まっていました。天正11年(1583)4月には、対立していた織田の宿老・柴田勝家を北ノ庄城(福井県福井市)に追い詰め、自刃に追い込んでいます。勝家の妻は、信長の妹・お市(北川景子)でした。
お市は、北近江の武将・浅井長政に嫁いでいましたが、長政は信長に攻められ落命。未亡人となったお市ですが、勝家に再嫁したのです。が、その勝家もまた悲劇的な最期を迎える。お市も夫・勝家のあとを追い、自害して果てます。
残されたのは、長政との間に生まれた3人の娘(茶々・初・江)です。この浅井3姉妹もまた、母と同じく、戦国の荒波に翻弄されることになります。