NHK大河ドラマ「どうする家康」第28話は「本能寺の変」。織田信長(岡田准一)にいよいよ最期の時がやって来ます。ドラマでは、信長が家康饗応の席で、接待役の明智光秀(酒向芳)を蹴り飛ばしていました。暴力を振るわれ、接待役を解任され、毛利攻めに派遣される光秀。その事を恨みに思い、光秀は信長に謀反したというのが、今回のドラマの本能寺の変の要因(怨恨説)。ある意味、ステレオタイプということができるでしょう。
光秀がなぜ主君・信長を討つことになったのか?その理由については、これまで、様々な説が提示されてきました。先述した「怨恨説」も有力な説の1つではありますが、その基になる史料は、江戸時代の古典・軍記物などが多く、信憑性に欠けます。信長の家臣・太田牛一が書いた信長の一代記『信長公記』も二次史料ではあるのですが、信長と同時代人が書いたものであり、信長の生涯を知る上での「基本史料」とも言われています。
では、その『信長公記』には、光秀の謀反理由は、どのように書かれているのか。「信長を討果し、天下の主となるべき調儀を究め」と書かれている。つまり「天下の主」となるため、信長を討ったと記されているのです。これは、いわゆる「野望説」というものです。もちろん、太田牛一が「野望説」を書いているからといって、それが絶対正しい訳ではありません。
が、当時の人が謀反理由をそう認識していたということは分かります。江戸時代に、織田家と縁も何もない人が書いた書物よりは、信用できるのではないでしょうか。戦国時代に来日し、織田信長などの戦国大名と面会したルイス・フロイス。フロイスは『日本史』という著作を残したことで有名ですが、その中で光秀のことを「裏切りや密会を好む」「謀略を得意とする」「刑を処するに残酷」という風に評しています。
フロイス『日本史』の記述を絶対的に全て信用することはできないにしても、比叡山焼き討ちや丹波八上城攻めにおける撫で斬り(皆殺し)令のことを考慮すれば、フロイスの光秀評は、あながち間違いではないと思われます。フロイス『日本史』は、信長が光秀と密会している際に、信長が光秀を足蹴にしたと書かれていますが、これは世間の噂を書き留めたに過ぎないと思われます(本当か否かは不明)。
『日本史』は光秀の「過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになった」と書いており「野望説」に立つものです。『信長公記』や『日本史』は中立的立場の書物ではありませんが、同時代人が、本能寺の変をどのように捉えていたかの参考にはなるでしょう。私は「怨恨説」よりも「野望説」の方が正しいのではないかと考えています。