NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回(48回)「報いの時」(12月18日放送)では、主人公・北条義時の死が描かれました。1224年6月13日、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時は、この世を去ります。享年62。承久の乱(1221年)から3年後のことでした。
鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、義時が死にゆく様が記されています。6月12日ーつまり死の前日。その日の朝には、義時は体調不良となっていたとあります。しかし、義時の体調は前々から優れてはいなかったようです。
が、6月12日の義時の病状は、それまでとは異なり、かなり重いものでした。重病となった義時。彼の病をどうにかしようと、陰陽師(陰陽道に基づき、卜筮・天文・暦数をつかさどり、吉凶を察知し、その対処のための呪術を行い、病気治療などに技術的知識をもった者)が集められます。陰陽師の安陪国道・安陪知輔・安陪親職・安陪忠業・安陪泰貞らは、義時の病について占います。
その結果は「義時の病は重いものではなく、夜になれば治ってくる」というものでした。義時の病平癒のため、祈祷も行われました。陰陽道の祭祀(天地災変祭・三万六千神祭・属星祭・如法泰山府君祭)が次々に行われたのです。しかし、祈祷や祭祀の甲斐なく、義時の病は重くなる一方でした。
そして6月13日、義時は危篤となり、午前中に息を引き取るのです。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)は、義時の病を「脚気」と「夏季に生ずる下痢や嘔吐を伴う体調不良」のためとしています。義時は日頃から脚気を患っていたようです。
義時の死因は、伊賀の方(ドラマでは「のえ」、義時の妻。義時との間に男子・政村を産む)が、夫・義時に毒を盛ったのではとの不穏なものもありますが、確証はありません。
義時の次男・北条朝時(母は姫の前)が、1224年閏7月2日に、父・義時の四十九日の仏事を行った際、仏前で読みあげられた言葉を記したもの(「慈父四十九日表白(湛睿説草)」)によると、義時は夏の初め頃から痛みを体 に感じ、床に臥しがちであったが、秋の末に亡くなったとあります。亡くなった季節に誤りがあるとしても、病状としては『吾妻鏡』の記述と似たものがあります。よって、私は義時は毒殺ではなく、病で亡くなったと思うのです。