『鎌倉殿』悲劇的な最期を迎える和田義盛 将軍・実朝との「篤い信頼関係」は本当にあった 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(warmtail/stock.adobe.com)
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 和田義盛(横田栄司)は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中でも、剽軽(ひょうきん)な性格もあって、とても人気があるキャラクターです。しかし、この義盛にもまた、梶原景時・比企能員・畠山重忠らと同じような悲劇的な最期と激闘が待ち構えています。それが、和田義盛の乱(和田合戦、1213年5月)です。では、義盛の乱はどのようにして起こったのでしょうか?

 『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)の1213年2月15日条には、乱の発端になったとも言うべき、次のような記述があります。「千葉成胤が法師1人を生捕りにして、北条義時に突き出した」と。

 この法師の名は、安念。彼は、信濃国(長野県)の青栗七郎の弟でした。安念は、成胤に「幕府に叛逆する自分たちに味方・加勢するよう」告げますが、成胤は幕府への忠義を重んじていたので、安念を捕えて、義時に差し出したのです。義時はすぐさま、このことを将軍・源実朝に報告。

 安念は尋問されることになりました。安念は、すぐに口を割ったこともあり、一味の者があちらこちらで生捕りになります。謀反の張本は、約130人、その家臣らは200人にも及んだようです。事の詳細を調べていくと、信濃源氏の泉親衡が主体となり、2年ほど前から、謀反を企てていたとのこと。

 それによると、泉らは、2代将軍・源頼家の子(千寿丸、出家して栄実)を将軍に擁立し、北条義時を倒す計画を練っていたのでした。重要なことは、この謀反の一味に、和田義盛の子(義直・義重兄弟)と義盛の甥・胤長が入っていたことです。ちなみに泉親衡は、自らを捕縛しようとした者どもと合戦に及び、そのまま行方知れずとなってしまいます。これが、泉親衡の乱の顛末です。

 しかし、不安定な情勢は続き、3月上旬には、鎌倉中で合戦が起きるとの情報が飛び交います。よって、鎌倉目指して、多くの御家人があちこちからやって来るのです。上総国(千葉県)伊北荘にいた義盛も鎌倉に到着。義盛は将軍・実朝に掛け合い、自分のこれまでの手柄に免じて、息子たちの罪を許してくれるよう嘆願。実朝はこれを受け入れます。ドラマでは、実朝と義盛の篤い信頼関係が描かれていましたが、実際、実朝は義盛のことを買っていたのでしょう。

 が、甥の胤長の罪は未だ許されませんでした。義盛は一族98人を引き連れて、御所南庭に座し、胤長の赦免を要求。ドラマ内の「無数の和田義盛が集まっています」の場面ですね。

 しかし、胤長は謀反事件の主犯として、許されず、そればかりか、和田一族の目の前で、縛り上げられた罪人として連行されていくのです。これは義盛はじめ和田一族にとっては、屈辱的でした。

 『吾妻鏡』は「義盛の謀反心が起こったのはこの出来事による」と記しています。胤長を厳しく取り調べるように命じたのは、義時でした。義時は和田氏を挑発しようとしていました。狙いは、和田氏を挙兵させる事だったでしょう。義時の非情さが垣間見えます。

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