『鎌倉殿』悲しい最期となった阿野全成 元は弟・義経と同じ寺に、実は“怪力”だった可能性 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(lisheng2121/stock.adobe.com)
画像はイメージです(lisheng2121/stock.adobe.com)

 阿野全成(あの・ぜんじょう)―昨年なら、この人名を聞いても「一体、誰?」と思う人が多かったのではないでしょうか?しかし、今ではNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、全成役を俳優の新納慎也さんがコミカルに演じてきた事もあり、ある意味、日本中に全成の名が知れ渡ったのではないかと感じます。

 阿野全成は、源義朝の子供です。母は常盤御前。常盤は、源平合戦において活躍した源義経を産んでいますので、全成と義経は同じ母から産まれた兄弟でした(全成が兄)。全成や義経は、源頼朝の異母弟となります。

 源義経が少年時代、京都鞍馬山にいたと伝わるように、全成も同じく京都の醍醐寺にいたとされます。僧侶になった訳ですが、全成は「悪禅師」と呼ばれたと言われています。これは、悪い坊主という意味合いよりは、力の強い僧だった事を表していると思われます。ドラマにおいては、ナヨナヨしたイメージですが、実は怪力だった可能性もあるのです。

 そんな全成の人生の転機となったのが、兄・源頼朝の挙兵でした(1180年)。全成は、頼朝の挙兵に参加しようと、関東に駆け付けるのです。全成は、弟・義経よりも早く頼朝と面会したのでした。全成は、その後、頼朝から武蔵国長尾寺や駿河国阿野庄(静岡県沼津市)を与えられます。

 しかし、全成は、弟・義経のように、平家討伐戦に参加して、戦場を駆け回る事はありませんでした。専ら祈祷に従事していたと推測されます。全成は、怪力だったはずなのに、これはなぜなのか?役割分担という事も考えられますが、義経や範頼ら異母弟が戦場に赴いているので、頼朝としては、弟を一人は手元に置いて置きたかったのかもしれません。

 全成の人生を変えた事と言えば、北条時政の娘・阿波局(ドラマでは実衣)と結婚した事も大きいでしょう。そして、この阿波局は、頼朝と政子の二男・千幡(後の三代将軍・源実朝)の乳母となるのです。この事が全成の悲劇に繋がっていく事になるのです。全成については、史料が少なく、どのような人柄だったのか、妻との関係はドラマで描かれたようなユニークなものだったかも分かりません。

 さて1199年、源頼朝は急死。後継は、嫡男の源頼家となります。しかし、この頼家は、乳母は比企一族の女性であり、その妾も比企能員の娘(若狭局)と比企一族と密着していました(若狭局との間には、子の一幡が生まれていました)。比企能員と対立していたのが、北条時政(主人公・北条義時の父)。そして、北条氏は、千幡を庇護していたのです。

 建仁3年(1203年)5月19日、全成は、突如、頼家から謀叛の疑いがあるとして、捕縛され、御所に監禁されます。同月25日、常陸国に配流されると、6月23日には頼家の命を受けた八田知家により殺害されてしまうのです。これまで、政治的に目立った活動がなかった全成が謀叛というのは本当でしょうか?

 全成は、千幡の乳母・阿波局の夫、北条側の人間。「全成が何やら怪しい動きをしています。千幡様を擁立し、頼家様を廃そうとしているとの事」と、噂レベルの事を頼家に吹き込んだ人間がいたのかもしれません。

 頼家にとっては、それだけで、全成を捕えるに十分でした。全成の捕縛・殺害は、頼家の北条氏に対する宣戦布告と言って良いものでしょう。ドラマではこれからどういう展開になっていくのか?ドキドキハラハラですね。

おすすめニュース

気になるキーワード

新着ニュース