『鎌倉殿』源頼朝は「征夷大将軍」にはなりたくなかった!?こだわりがあった官職名とは

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第22回放送で、大泉洋が演じる源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、妻北条政子(小池栄子)と喜び合うシーンがありました。1192年、源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任命されたことは、日本史の教科書にもよく取り上げられていて「学生時代に覚えたよ」という人も多いかもしれません。

 「いいクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせとともに「幕府成立は1192年だ」と覚えた人も多いでしょう(幕府成立時期は諸説)。それほど、頼朝の征夷大将軍就任は大きなこととされていましたし、頼朝がこの職につくことを念願していたと思われてきました。

 『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には、「将軍職に頼朝が以前からなりたいと希望していたこと」「しかし、後白河法皇の反対で叶わずにいたこと」「法皇が1192年3月に崩御、亡くなったことで任官が実現したこと」が記されています。

 このようなことで、頼朝は征夷大将軍職を希望していたと言われてきたのですが『三槐荒涼抜書要』(平安・鎌倉時代の貴族の日記の記事の抜書)という史料の発見によって、意外な事実が明るみになってきました。

 まず、その史料によると、1192年7月「頼朝が大将軍に任命してほしい」と朝廷に希望していたことが分かります。そして、朝廷・貴族たちは、頼朝をどの官職に任命するべきか、あれこれ考えるんですね。

 候補として挙げられた一つは「惣官」。惣官とは、兵士役の賦課や兵粮米の徴収を強力に推進することができる軍事指揮官のこと。平清盛の後継者であった平宗盛は、畿内近国の惣官にかつて就任していました。

 惣官職は、頼朝が望んだ大将軍職とはかけ離れているように思いますが、朝廷からしたら、頼朝の幕府は、平家政権を滅ぼして成立したもの、その後継の政権には惣官職で良いのではないかとの想いがあったのかもしれません。しかし、惣官は滅亡した平宗盛が就いていた官職。凶例とされて採用されませんでした。

 第二の候補には「征東大将軍」というものもありました。これならば、頼朝に相応しい官職と思いきや、これも結局は採用されず。木曽義仲が就いていた官職だからです。義仲は京都に入ってから後白河法皇と対決し幽閉するなどした挙句、最後には鎌倉軍に攻められて滅亡してしまいます。よってこれも不吉な凶例とされたのです。

 第三の候補は「上将軍」。聞きなれない官職ですが、それもそのはず、上将軍は中国での任命例があるだけで、日本ではなかった。わざわざ異国の先例に倣う必要もないとして上将軍も却下。

 そして最後に残ったのが「征夷大将軍」でした。なぜ、征夷大将軍は採用されたのか。それはかつて、平安時代初期に、坂上田村麻呂が二度も征夷大将軍に任命され、東北に蝦夷追討に功績があり、それが「吉例」、良い例とされたからでしょう。

 以上のことから、頼朝は「征夷大将軍」に任命されることになったのですが、朝廷側は頼朝を最初から是非とも征夷大将軍に任命したいわけではなかったことが分かります。

 それは、頼朝も同じで、是非とも征夷大将軍を希望していたわけではないことが窺えます。頼朝はただ「大将軍に任命してほしい」と要望してきたのですから。「大将軍」と名のつくものなら、何でも良かったと思っていたふしもあります。朝廷も頼朝も「征夷」という言葉・語句には重きを置いていないように思うのです。

武家社会において、伝説化された氏族の祖先は「将軍」と呼ばれました。また頼朝と対立し、最後には滅ぼした奥州藤原氏も「鎮守府将軍」でした。そうしたことを考えた時、頼朝がなぜ「大将軍」職を望んだかが見えてくるでしょう。

 武家政権を確立しようとした頼朝は、これまで存在した「将軍」をも超える「大将軍」職をもって、武士に君臨しようとしたのではないでしょうか。超越的権威でもって、武士に臨み、確かな地位を築こうとしたのです。

さて「源頼朝は征夷大将軍になりたくなかった?」というテーマで書いてきました。頼朝は「征夷大将軍になりたくなかった」わけではありませんが、最初から積極的に希望していたわけではないということが分かるかと思います。我々はすぐ頼朝=征夷大将軍と単線で考えてしまいますが、その裏では様々な試行錯誤があったのでした。

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