『鎌倉殿』源平合戦で注目された「三種の神器」失われた宝剣はどうなったのか?

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画僧はイメージです あんころもち(ankomando)/stock.adobe.com
画僧はイメージです あんころもち(ankomando)/stock.adobe.com

 アニメ「平家物語」(フジテレビ、2022年1月〜3月)やNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されていることもあり、今、三種の神器が注目を集めているように思います。三種の神器でネット検索すると関連ワードとして「壇ノ浦」「平家」との文字が登場してくる。また「鎌倉殿の13人」の中でも「三種の神器」という言葉が飛び出し、Twitterでトレンド入りすることもありました。

 これはドラマの第14回「都の義仲」で、木曽義仲がついに上洛し、後白河法皇と対面するシーンがあったが、義仲が三種の神器を知らず、自らの刀を法皇に献上しようとするシーンが描かれていたことによります。義仲の田舎物振りを強調する「演出」でありましょう。私は、実際には義仲は三種の神器を知っていたと考えています。彼は北陸宮という皇族を推戴していたし、周りには大夫房覚明という知識人もいたから。何より、源氏の御曹司として、地方にあっても、基礎的な教養は授けられていたのであろうと。

 さて、三種の神器とは、神鏡「八咫鏡」、神璽「八尺瓊勾玉」、宝剣「天叢雲剣」(草薙剣)のことです。古くより、皇位の象徴として、皇室で代々受け継がれてきた宝物です。日本神話によると、天照大御神が孫の 瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)に三種の神器を与えたと言われています。

 鏡は垂仁天皇(第11代天皇。4世紀頃の天皇)のときに,伊勢の五十鈴川のほとりに祀られました。これが伊勢神宮の起源です。一方、剣は日本武尊の妻が尾張に祀ったと言われます。これが熱田神宮の起源です。 ちなみに草薙神剣は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇を退治したときにその尾から生まれたものと言われています。鏡は天照大神が天の岩屋に隠れたとき、大神の出御を願い、石凝姥命(イシコリドメノミコト)が作り、勾玉も同じく天の岩戸隠れにおいて、岩戸に隠れてしまった天照大神を呼び戻すために、真榊(神事に用いるための祭具)に掛けて飾るために作られたと伝えられています。

 この三種の神器を持っているということが、正統な天皇の証しであるとされたのです。しかし、平家は都落ち(1183年)に際して、安徳天皇と三種の神器を京都から持ち去ってしまいます。都に後白河法皇はおられましたが、天皇と三種の神器は不在という異常事態が発生したのです。そこで急遽、亡き高倉天皇の第四皇子で、法皇の孫である尊成(たかなり)が天皇の位に即くのです。 承久の乱(1221年)で北条義時とぶつかることになる後鳥羽天皇です。三種の神器なき、即位でした。

 よって、京都の朝廷は、何としても、平家から三種の神器を取り戻したいと思っていました。鎌倉の源頼朝は、平家を追討するために、異母弟の源範頼と義経を派遣しますが、三種の神器の奪還も大きな課題でした。 1185年3月14日、頼朝は九州の範頼に手紙を遣りますが、その内容は「平家追討は、じっくりと良く考えてせよ。鏡を始めとする三種の神器を京都の朝廷へお返しするように」というもの。いたずらに攻めて、三種の神器が失われることがあってはならんとの想いがうかがえます。

 しかし、残念ながら、同年3月24日の壇ノ浦の戦いで、三種の神器の一つの剣は、安徳天皇と共に海中へ。発見されることはありませんでした。鏡は安徳天皇が乗っておられた船に安置されていたのですが、源氏方の兵士たちが見ようとしたところ、目が眩み、意識がおかしくなるという怪奇現象があったとのこと(『吾妻鏡』)。 鏡と勾玉は無事であったので、同年4月24日には京都に帰ってきました。一件落着ではありましたが、剣が失われたことは朝廷としても残念だったでしょう。懸命の探索が続けられましたが、とうとう草薙剣は見つからず、最終的には伊勢神宮から贈られていた剣を新しい宝剣とすることになります。

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