沖縄が15日に「本土復帰50年」という記念の日を迎えた。元ボクシングWBA世界ライトフライ級王者でタレントの具志堅用高(66)は石垣島で生まれ育ち、高校時代を沖縄本島の那覇で過ごした「うちなーんちゅ」(沖縄の人)だ。現在、放送中のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」に出演する具志堅が、よろず~ニュースの取材に対し、同作で描かれる半世紀前の出来事に思いをはせた。
具志堅の朝ドラ出演は同じく沖縄を舞台にした「ちゅらさん」(2001年放送)以来2度目。「ちむどんどん」では12日放送の第24回に初登場した。黒島結菜が演じるヒロインの兄(竜星涼)が所属するボクシングジムの会長を演じている。
「ドラマのストーリーから島にいた時代をすごく思い出した。復帰前の出来事だから面白いね。自分たちの経験してきたことだから。仲間由紀恵さんみたいなお母さん、沖縄にはいっぱいいたな。酔っぱらってケンカする人もいたね。ドラマでも酒飲んでケンカするシーンあったけど、ああいうの、普通なんだから」
ドラマの話から、現実に本土で暮らした先輩たちの現実を語った。
「本土の人は、基地の問題とか、米軍の車を燃やしたりとか、そういうニュースを見て『沖縄の人は大変だ、酒飲んでケンカして騒ぐ…』とか思ったりして、沖縄出身者がアパートを借りられないということもあった。沖縄同士で集団生活する人が復帰前後は多かったんですよ。沖縄方言の『うちなーぐち』で、沖縄出身ってすぐ分かるらしいね。言葉が全然、分からなかったらしい。先輩たちによく言われました。『我々は相当にハンディがあった』と。私は復帰2年後の1974年に東京に出てきた。最初に先輩のアパートに居候して、3か月後に飯田橋のとんかつ屋に住み込みでアルバイトした」
76年10月に世界王座を初挑戦で奪取。「ワンヤ、カンムリワシニナイン」(私はカンムリワシになりたい)と、沖縄の言葉を使った背景には、そうした同胞への思いがあった。
「カンムリワシが天然記念物に指定された日に世界王者になった。入場時には『沖縄の人たちのために俺は世界チャンピオンになるんだ』とお祈りしてリンクに上がった。たった一夜であんなに人生変わるのか。いやいや、すごいですよ。翌日、バイト先には人が集まって入れなくなるし、出前持ちだった私が、世界戦2日後に後楽園球場で巨人の王貞治さんとお会いしたり。大みそかには、レコード大賞から紅白歌合戦まで、歌手の皆さんと一緒にパトカー先導で移動ですよ。石原裕次郎さんと船で対談したり、横綱の北の湖さんら偉大な人たちとお会いした。石垣島の実家は観光地になって、新婚さんがズラーッと並んで写真撮ったり。沖縄県人会に呼ばれて『おー、ヨーコー!ありがとう。お前が世界チャンピオンになったおかけで、どれだけ助かったか。沖縄のことをほめられるようになって仕事がしやすくなった』『難しい名前も覚えてもらえた』と。うれしかったね」
72年5月の本土復帰当時は興南高校2年の16歳だった。
「5月15日は6月のインターハイ沖縄予選に向けて一生懸命に練習して、夜は下宿先の銭湯で風呂掃除をしていたと思う。石垣島にいた中学生の頃、先生や親と一緒に『沖縄を返せ』って提灯行列に参加したけど、那覇では周囲で騒いでいた記憶はない。銭湯ではセントのおつりを用意しとかなきゃいけない。1ドル360円の時代。入浴料や沖縄そばは15セント(54円)くらい、映画が25セント(90円)。興南が(68年)夏の甲子園でベスト4になった映像を石垣島の映画館で見た時も25セント。ステーキは1ドル、島によって土地が坪1ドルというところも。100ドルでかわらぶきの家が建った時代です」
「円」を初めて見たのが同年8月、山形県で開催されたインターハイ出場のため本土に渡る前だった。「10ドル、両替したかな。1か月分の生活費。沖縄から船で2泊3日、東京の晴海に着いて、新橋駅から山手線に乗って上野駅に出て、夜行の寝台列車で山形の酒田まで。初めてのヤマト、初めての電車。円を初めて東京で使った。千円札の価値観が分からなくてね。監督に『お前らは沖縄から初めてパスポートを持たないで行く沖縄の代表だ』と言われたのを覚えている」
車の対面交通が米国式の右側から日本式の左側通行に変わったのは78年。現役の世界王者として沖縄県の啓発CMに出演している。
「防衛戦前のロードワークの最中にジャージーのまま撮った初めてのCMです。『人は右、車は左!』って言いながらパンチを出した。石垣島に信号ができたのは本土復帰してから。近所のサトウキビ畑まで馬車に乗せてもらって手伝いに行った。自転車は高くて石垣島では買ってもらえませんでした」
沖縄の変化が具体的に示された事象は「通貨」と「交通」。具志堅は実体験から振り返った。