歌舞伎俳優で人間国宝の二代目片岡秀太郎(本名・片岡彦人)さんが、23日午後0時55分に慢性閉塞性肺疾患により大阪府吹田市内の自宅で死去していたことが27日、松竹から発表された。79歳だった。十三代目片岡仁左衛門さん(故人)の次男で、兄の片岡我當、弟の十五代目片岡仁左衛門と共に、上方歌舞伎の名門・松嶋屋の看板を支えた。
歌舞伎俳優としての卓越した存在に加え、片岡愛之助の養父であることでも知られた秀太郎さん。愛之助を養子に迎えたのは、歌舞伎俳優としての素質を高く評価したことだけではなく、貴重な名跡を復活させることへの「松嶋屋」の強い総意があった。
愛之助の実家は、大阪・堺市で船のスクリューを作る会社を営んでいた。愛之助はかつて、幼少時を「家と工場が一緒になっていて、ダンプが出入りするので、危ないので外へ出られなかったんです。そこで塾代わりに、新聞に松竹芸能の子役募集が載ってまして、行かせたらどうやとなったらしいです。それが初めて歌舞伎に触れたときですね」と振り返った。
一般家庭から歌舞伎の世界へ飛び込むことを決意したのは、1981年のこと。「舞台って1カ月休みがないので、勉強が全然できなくなっちゃって。今月で辞めますということで話がついていたんです。そこへ、父の秀太郎から話がありまして。実家の両親も交えて話し合いました」という。
「実家の父は好きで家を継いだわけではないので、僕には好きなことをさせてやりたかったようなんですね。そこで、秀太郎の薦めで、十三代目の片岡仁左衛門のところにあいさつに行きましたら、快く『じゃあ部屋子ということで、頑張りなさい』と言っていただいたんです。十三代目の本名が『千代之助』だったので、『千代丸』という名前をいただきました」と、梨園での第一歩を刻んだ愛之助。93年には、秀太郎さんの養子となったが、そこには大きな理由があった。
愛之助いわく「十三代目から『愛之助という非常にいい名前があるから、それを継ぎなさい』と言われたんです」。秀太郎さんだけの意思ではなく、松嶋屋全体としての判断が働いていた。「僕が六代目なんですけど、もともと血筋の名前だったのを、腕のいいお弟子さんに与えてしまったので、血筋の人が継ぐことができなかったんですね。僕は血筋以外の人間なので、それを継いで、また血筋に戻したらどうかと、そこで、養子になったらどうですか、と言われたわけです」と明かした。
愛之助は「どうしようかと思ったんですが、実家の父はすごくシビアで頭のいい人間でしたんで、『一生それでメシ食っていくのなら、行ってこい』と、あっさり決断を下されましてね。逆に嫌われてるんかと思ったぐらい(笑)。そこからは、主役になろうが脇役になろうが、お前の腕次第。レールには乗せたから、あとは自分で走りなさいと」と、実父の決断もあり養子話を受けることを決意。その裏で「19歳の僕としては、自分の名前に『愛』って付くのは恥ずかしかったですね(笑)。『愛、ってなあ…』って」と、いまや愛称「ラブリン」の元にもなっている「愛」の名に抵抗があったことも告白した。