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大河ドラマ「べらぼう」稀代の出版業者・蔦屋重三郎の死に様とは 識者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 大河ドラマ「べらぼう」最終回は「蔦重栄華乃夢噺」。寛政3年(1791年)、蔦屋重三郎は山東京伝の洒落本を刊行したことにより、処罰を受けることになります。猥りがましき書物を出版したとして当局から罰金刑を受けたのです。弾圧を受けた蔦屋は出版物の数が激減してしまいます。

 寛政3年の刊行物は「吉原細見」(吉原遊廓の総合情報誌)1種、黄表紙4種、洒落本3種、狂歌本3種の合計11種という有様。前年(1790年)は「吉原細見」1種、黄表紙6種、洒落本1種、咄本1種、読本1種、滑稽本1種、狂歌本6種、その他4種の合計21種を刊行していたことを思うとかなり刊行数が減っています。寛政3年から数年経った時でも、蔦屋は戯作者の過去の名作を改題するなどして刊行しているのです。

 これまで新たな挑戦を試みてきた蔦屋重三郎でしたが、ここにきて低迷しているように思われます(また蔦屋から刊行された絵本の版権譲渡なども行われています)。重三郎がどれだけの財産没収刑を受けたかは議論があるのですが、処罰を受けた寛政3年以後、蔦屋の版元としての能力が低下し、財政も逼迫している様子が窺えます。

 さて寛政8年(1796年)の秋、重三郎は重い病となってしまいます。彼は脚気だったとのことです。そして翌年(1797年)の5月6日、いよいよその時がやって来ます。この日、重三郎は「昼の12時に私は死ぬ」と予言したそうです。月を経るごとに病が重くなっていたので(もうそろそろか)と内心感じていたのでしょう。死期を悟った重三郎は、妻と別れの言葉を交わし、最期の時が来るのを待ちます。

 しかし、12時を過ぎても、重三郎は亡くなりませんでした。予言は外れたのです。「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と重三郎はその時、笑ったと言います。死を迎える時、このくらいの余裕を持って、現世を去りたいものです。この後、重三郎は口を開くことはありませんでした。そして同日の夕方、48歳でこの世を去るのです。多くの戯作者や浮世絵師の才能を見出し開花させてきた重三郎。稀代の出版業者は余裕の笑みを漏らしてこの世を去ったのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024年)

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