NHK大河ドラマ「べらぼう」第47回は「饅頭こわい」。江戸時代後期の出版業者・蔦屋重三郎は、著名な浮世絵師で「富嶽三十六景」などの作品がある葛飾北斎とも交流がありました。北斎の師匠は浮世絵師・勝川春章であり、春章は重三郎とも仕事の縁があったのです。そういった縁も、重三郎と北斎を結び付けるのに一役買ったのではないでしょうか。重三郎は「吉原俄」(芸者などが思い思いの扮装で狂言や所作事を演じながら歩くパレード。吉原の重要な年中行事)の絵を北斎に依頼しています。
北斎は「べらぼう」の主人公・重三郎(初代)ではなく、二代目・蔦屋重三郎との方との関係が強かったとされてきましたが、初代・蔦重のもとでも北斎はそれなりの数の仕事をしていたことが近年、分かってきています。ちなみに重三郎は寛政9年(1797年)に48歳で亡くなりますが、蔦屋を継いだのは番頭の勇助でした。重三郎の死後、この勇助が養子に入り、二代目・蔦屋重三郎となるのです。
重三郎に妻がいた事は分かっていますが、子供がいたかまでは分かっていません。子がなかったため、番頭だった勇助が養子に入り、蔦屋を継いだ可能性もあるでしょう。勇助はおそらく重三郎にも見込まれていたと思われます。しかし、勇助は「初代が敷いてきた路線をそのまま延長していく技倆は二代目には備わっていなかった」と評されるように、初代・蔦重と比べて低評価となっています(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』2024年、平凡社)。刊行された黄表紙などが低調だったこともその評価に影響しているようです。
さて、北斎は初代・蔦重の死後から2年後(1799年)に狂歌絵本「東遊」を蔦屋から刊行していますが、その中には耕書堂(重三郎の書店)の様子も絵として描かれています。蔦屋で働く人々の姿、耕書堂で浮世絵を物色する武士の姿などが描かれています。北斎は初代・蔦重亡き後の蔦屋をどのように見ていたのでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(2024年、平凡社)