耕作放棄地の問題は全国的に深刻化している。かつて日本の食料生産を支えた農地が、担い手不足や高齢化によって次々と管理されなくなり、荒廃していく現実は多くの地方が抱える課題だ。そんな中、長崎県西海市の、かつてミカン畑だった広大な耕作放棄地で、希望の灯をともす取り組みがおこなわれている。取り組みを進める森川放牧畜産の森川薫さんに話を聞いた。
森川さんが最初に関わった耕作放棄地は、10年以上にわたり人の手が入らず、雑草や雑木は人の背丈を優に超えて生い茂り、昼でも暗く空を見上げることさえままならない場所だった。
災害ボランティア活動などを通じて環境問題への関心が高かった森川さんは、宮城県で牡蠣養殖を営む畠山重篤氏が提唱する「森は海の恋人」という思想と出会ったこともあり、豊かな森が健全な水循環を生み、海を豊かにすると知る。このことにより森川さんの「自分たちが森を守り、再生するプロセスに、牛と共に貢献できるのではないか」というビジョンが広がったというのだ。
耕作放棄地に放たれた牛たちは、セイタカワダチソウやクズ、ススキといった、人の手では管理しきれない厄介な植物をむしゃむしゃと食べ進む。時には力強く踏み倒し、人が分け入るための道筋さえ切り拓いてくれた。
牛の役割はほかにもある。「牛が入って雑草を食べ、二年、三年と経つと、牛の糞によって土壌が豊かになり、全く違う種類の栄養価の高い草が生える土になっていくんです」と森川さんは語る。
牛が草を食べ、人の手で土地を適切に管理することで、土壌には再び空気が送り込まれ多様な土壌細菌が活性化し始め、土は水を蓄える力を取り戻していく。ただしこの期間は、目に見える成果や経済的な見返りはほとんど期待できず、忍耐が求められる作業だった。
それでもこの放牧畜産によって驚くべき成果が得られた。自然に寄り添った飼育法で育てられた牛が、市場で最高級のA5ランク評価を受けたという事実だ。
森川さんたちの活動は耕作放棄地だけにとどまらず、「山から海への水の循環」も視野に入っていた。今までの耕作放棄地は、固く締まった土壌が雨水を弾き、貴重な水は浸透することがなかった。しかし牛の放牧と人の手による適切な管理によって土壌環境が改善されると、土壌はスポンジのように雨水を吸収し、ゆっくりと地下へと浸透する。
地下水となった水は、山の土壌が持つミネラルやフルボ酸といった養分を豊かに含みながら、時間をかけて伏流水となり、やがて川へ、そして最終的には海底から清浄な湧水として海へと注ぎ込む。この「海底湧水」こそが、沿岸の生態系、特に植物プランクトンや海藻、そしてそれらを糧とする牡蠣などの貝類を育む、かけがえのない栄養源となるのだ。
自然の大きな循環を見据えた森川さんたちの活動は、多くの人々の心を捉えている。活動に共感した多様な背景を持つボランティアたちが全国から集い、森川氏と共に土にまみれ汗を流す。「自然とのつながりを取り戻したい」との思いが広がっている証拠だろう。
森川放牧畜産の挑戦は、一畜産農家の奮闘記という枠を超え、現代社会が抱える課題と、私たちが本来持つべき自然観への問いかけを内包している。効率と利便性の中で疲弊しがちな私たちの心にも再生への希望を芽生えさせてくれるのである。