大相撲で外国出身初の横綱となった曙太郎さん(享年54)が4月上旬に心不全のため死去した。1990年代、国民的ヒーローとなった若乃花と貴乃花という2人の兄弟横綱に立ちはだかったヒール(敵役)的存在として空前の大相撲ブームを盛り上げた曙さん。88年春場所初土俵の同期である若貴兄弟とは「一度も酒席を共にしたことがなかった」からこそ「芽生えた感情」があったという。2011年にデイリースポーツ紙面で連載した「第64代横綱の真実 曙道」取材の中で本人が明かした思いを再現する。
曙さんはヒールであることを受け入れていた。「若貴ファンだけでなく、一般のファンの中にも『日本の国技がハワイのヤツらに取られてたまるか』と思う人が少なくなかったと思う。でも、俺はね、それを結構、楽しんでたんですよ。土俵で〝ブーイング〟を浴びる快感があったですね。俺、よく(東関部屋の)若い衆に言ってました。『若貴ばっかり人気だけど、それが嫌だったら、勝てばいいだろ』って」
東関部屋の屋台骨を背負った曙さんは孤軍奮闘した。「僕のライバルは若貴兄弟だけでなく、二子山部屋勢だったわけですよ。曙vs藤島部屋、曙vs(93年合併後の)二子山部屋。終盤戦で若貴とやるまでに、実力者の(元大関)貴ノ浪さん、(元関脇)貴闘力さんや安芸乃島さんらを倒さなきゃいけない。そこでつまずくと、もう若貴には届かない。さらに、武蔵川部屋も出てきた。横綱の武蔵丸さん、大関は武双山さん、出島さん、雅山さんと3人いて、全員と当たるんだから」
大相撲で同部屋の力士は本割(本場所での正規の取組)での対戦はない。実力者と総当たりして歴代10位となる通算11回の幕内最高優勝を遂げた曙さんの実績は数字以上に評価されていい。打倒・二子山部屋の執念をむき出した象徴的な場所は94年春場所。横綱曙は千秋楽結びの一番で大関・貴ノ花を破り、12勝3敗で3人が並んだ優勝決定巴(ともえ)戦で大関・貴ノ浪、苦手とした平幕(前頭12枚目)の貴闘力に連勝して7度目の優勝。1日で二子山勢を3連破して意地を見せた。
そんな勝負師もプライベートでは陽気なハワイアン。仲間と飲食する機会を好んだ。「僕はこういうタイプだから、よく同期と飲み会を開いたりしていた。巡業でも必ず1回は、同期会みたいな『曙会』をやってました。その席には(元大関)魁皇さん、(元小結)和歌乃山さんら同期がいたわけだけど、みんな、若貴さんにも来て欲しいわけですよ。でも、結局、お二人が来ることはなかったです」
ストイックでアスリート志向の若貴兄弟に対し、曙さんは「あの人たち、『自分の部屋の壁だけ見てて何が楽しいのか』って思いました。ほんと、自分のことを殺してるなと感じた」という。だが、それはそれとして、相手のスタイルを尊重した。若乃花は2歳下(日本式の学年では1年下)、貴乃花は3歳下だが、敬語を使った。「僕より年下ですけど〝さん〟付けしました。一緒に遊ぶなんてことは全くなかったですけど、俺は仲いいつもりだった。2人がどう思ってたか分からないけど、俺は大好きだった」
引退後にハワイでのテレビ収録時に元若乃花の花田虎上さんから当時の思いを伝えられたという。
「若乃花さんから『本当は(飲み会に)行きたかった』って初めて聞いた。同期の仲間が勝負を離れて楽しく飲んでいるのが『うらやましかった』と。でも、彼は『行かなかったことによって、あれだけ、いい相撲を取れた』って言ったんですよね。『一緒に飲みに行って、感情が芽生えたりすると、あれだけのいい勝負はできなかった』って。その話を初めて聞いて、『彼らは勝負に徹したんだな』と。その気持ちがよく分かった」
(優勝決定戦を除く)対戦成績は若乃花とは18勝17敗、貴乃花とは21勝21敗と互角。93年名古屋場所では、3人が13勝2敗で並び、優勝決定巴戦で若貴を連破してV4を達成した日も忘れられないという。
「大好きだからシバキ合えた。好きじゃなかったら、何の感情も芽生えないんだよな。一緒に飲まなくても、彼らとの間に感情は芽生えてたんですよ」
そう語っていた曙さん。逝去後、一時代を築いた〝若貴兄弟〟から思いのこもったメッセージが届けられた。