ラブコメヒロインを思想哲学的に考察 「女神のカフェテラス」幕澤桜花が示す家族の議論

マザー・テラサワ マザー・テラサワ
『女神のカフェテラス』ヒロインの幕澤桜花 (C)瀬尾公治/講談社
『女神のカフェテラス』ヒロインの幕澤桜花 (C)瀬尾公治/講談社

 ラブコメのヒロインを思想哲学的に考察する。「週刊少年マガジン」(講談社)連載中の『女神のカフェテラス』(作・瀬尾公治)が4月にテレビアニメの放送が開始されることを祝して、早大大学院で政治哲学を専攻し、哲学をモチーフとしたネタを展開する〝哲学芸人〟マザー・テラサワが登場。祖母の遺産である喫茶店「ファミリア」を継いだ主人公・粕壁隼と、5人の女の子による共同生活とその経営模様を描く同作において、ヒロインの幕澤桜花、鶴河秋水、月島流星、小野白菊、鳳凰寺紅葉から、第2回は桜花をチョイス。公共圏の歴史的変遷に注目したドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマス(1929-)の思想、そこから派生する議論との意外な接点が浮上した。

 ◆建前の生き物

 女性/男性を一般論として語るのは嫌ですが、「女性は男性に比して建前の生き物だ」という言葉はよく聞きます。私が過去知り合った女性も総じて述べていました。心の底で虫ケラ同然に軽蔑する相手でも表面上はニコニコ振る舞う事が出来る訳です。とはいえ「女性は残酷な生き物だ」と早合点はいけません。家制度の歴史の中で、女性に家庭内の問題を扱う役割を与えた結果、女性は面前の人間関係におけるコミュニケーションや感情を察する能力が高くなったと言われています。それは社会が女性へ強要した特質とも言えるのです。

 中学・高校のクラスの様を思い出して下さい。小グループを組みまとまる傾向が強いのは、男性より女性ではなかったでしょうか。「本音を本音として語ることが出来る人間を限定する」という女性の世間知がもたらす状況だと私は考えます。ゆえに〝女性の世間〟は利害を超えた「公」よりも周囲の「私」の理を優先する傾向が強いのだと思います。

 哲学芸人としてのフェチかもしれませんが、「私」を優先する〝女性の世間〟の中で「公」の理屈に重きを置く女性を見ると私はエロス的魅力を感じます。具体的には面倒事の多いクラス役員をあえて引き受ける、大学のゼミナールを取りまとめる、などのタイプでしょうか。〝女性の世間〟のしがらみを超えたところに、あえて身を投げ分断した価値観を統合しようと試みる。それは半裸であることを気に掛けず革命の戦いに邁進する、ドラクロワの描いた自由の女神を眺める際の恍惚感に近いのかもしれません。

 お前の変質的な女性観を誰が聞きたいんだ!という声が聞こえそうです、すみません。今回取り上げる幕澤桜花こそ、〝女性の世間〟の支配的価値観に逆行し「公」の価値観を重視する存在だと私は訴えたかったのです。にしては気持ち悪い前フリだったかもしれませんが…。

 「ファミリア」に集うヒロインは互いのことを「家族」と呼び合いますが、桜花の「家族」の捉え方は他4人とは一線を画しています。具体的に言及する前に、「公と私」と「家族」に関わる思想的議論に触れましょう。面倒だと思うかもしれませんが、そうしなければ物事の本質には触れられませんよ!

 「公共性」の議論で有名なユルゲン・ハーバーマスという哲学者がいます。超単純化して説明すると、彼は「公(public)」と「私(private)」の関係が時代に応じて、どのように変容したかを探究しました。前近代的絶対王政の時代を経て、権利や自由を得た市民は「どういう政治社会が理想的か」の模索が求められます。当然市民間の価値観は異なるので、互いの意見をぶつけ合い、利害を調整し、一つの規範としてまとめる場が必要となります。その場こそハーバーマスの言う「公共圏」に相当します。

 他方で、自由な市民社会は資本主義に基づく私的利益の追求に拍車を掛けました。市場における利潤獲得競争は激しさを増します。そんな中で〝競争からの逃避地〟として小家族にまとまる傾向が18世紀ヨーロッパで強まりました。家族に相当する私的領域をハーバーマスは「親密圏」と呼びます。

 かと言って「親密圏」=「家族」と断言出来るほど単純ではありません。同性婚が認められない社会で同性カップルが同居している場合は、実質は家族なのに制度的には家族ではない、というケースが出てきます。また、老人介護のように私的な生活の中に公的介助者が入るケース、自助グループによる共同生活など、現代社会では、他者同士による家族的な関わりは数多く存在する訳です。家族的な親密圏に公的な要素は入り得るし、そういうまとまりをどう捉えるのかは現代思想でも度々議論になっています。

 改めて「ファミリア」を考えると、主人公・粕壁隼を含めた6人は血縁無き「家族」です。しかし、各ヒロインが隼への恋愛感情を募らせ次第に利害対立が表面化します。一夫多妻制でない限り、家族でこの状況は起こり得ません。そしてその様を「風紀が乱れている」と誰よりも早く察するのが幕澤桜花でした(5巻#45風紀委員・桜花)。その他にも、カフェの制服を作ることで血縁では補えない「共通のアイデンティティ」の構築を試みるのも桜花なのです(1巻#5犬猿の仲)。また、桜花は洗濯以外の家事が苦手と描かれていますが、「私」よりも「公」を優先しがちな性格がそうさせている、とも分析出来そうです。考え過ぎでしょうか。

 いずれにせよ、「血縁」に囚われない結びつきが増える現代社会において、ファミリアの「家族」は現実の「親密圏」的な環境で生じる問題を体現していると思われます。そのことを幕澤は敏感に感じ取り調停しようと試みるのです。「公」と「私」の混濁した難問を、社会が押し付ける女性性に囚われず向き合う幕澤に、私はやはり魅力を感じます。

 余談ですが、桜花のような女性に好意を抱き学生時代アプローチを試みたところ、私は相手から「恋愛対象になる事は未来永劫あり得ません」と言われました。表面上親密圏を作り上げているつもりだったんですが、哲学芸人も筆を誤るみたいです。

 以上から幕澤桜花を一言でまとめると、「親密圏での無秩序性に警鐘を鳴らす『風紀の女神』」と言ったところでしょうか。ドラクロワの「自由の女神」とは意味的に真逆ながら、瀬尾公治先生は同等の思想的重みを桜花という女神に与えていると、私は解釈しています。

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