「マジンガーZ」「バビル2世」などの主題歌を担当し、アニメソング界の〝帝王〟〝アニキ〟の愛称で親しまれた歌手の水木一郎(本名・早川俊夫)さんが6日に肺がんのため死去していたことが12日、所属事務所から発表された。74歳だった。
ものまねタレントで、昭和のアニソンに関する著書、事業も手がける剣持光は「水木さんはよく〝雄たけび〟の歌手と言われますが、彼本来の持ち味は〝くせのない〟歌い方です」と、世間のイメージとのギャップを指摘した。
「マジンガーZ」における「ゼーット‼」、「超人バロム・1」における「ズババババーン‼」は有名だ。それでも、剣持は「それは1990年代以降、バラエティー番組が水木さんを面白おかしく取り上げ、本人もサービス精神旺盛なので、雄たけびをエスカレートさせたからでしょう」と説明。実際に雄たけびを上げる曲は一部に過ぎないといい「アニメファンの間で水木さんのものまねは難しいと言われますが、芸人でも水木さんをものまねできるのは、私の知る限り東郷敦(あっくん)ぐらいで、他の芸人はことごとく失敗しています。あっくんによるものも、彼の地声が水木さんに似ているからです。私自身ものまね芸人をやっていますが、ものまねは対象者にくせがなければ、マネをするのが非常に難しい」と語った。
水木一郎さんは1948年1月7日、東京・世田谷で生まれた。5歳のころから自分は歌手になると豪語し、小学校高学年でアメリカンポップスに夢中になった。10代半ばからはジャズ喫茶ACB(アシベ)に頻繁に通い、64年にはジャズ喫茶ラ・セーヌのオーディションで、アメリカンポップス「僕のマシュマロちゃん」を歌いグランプリを獲得した。
レコードデビューは高校在学中17歳の時で、門下生入りしていた作曲家・和田香苗から「英語の歌が歌える生徒」として日本コロムビアに推薦され、抜てきされた。しかし、〝早川昭〟の名義でレコーディングした「シェナンドー」は、あるメーカーの促販用に制作されたソノシートだった。「正式的なデビューと認められていなかった」(自伝「アニメソングの帝王・水木一郎の書アニキ魂」アスペクト、2000年)と語っている。
68年に〝歌謡界のプリンス〟の触れ込みで日本コロムビアから正式デビュー。5枚のシングルレコードはことごとく売れず「デビューした当時は、NHKとか、フジテレビとか、けっこう、テレビにも月に1本ぐらいは出させてもらっていたんだけど、気がつけば、飲み屋さんで酔った客相手にレコードを売るキャンペーンに明け暮れる毎日だった。頭を下げてお酌をして買ってもらう。要するに俺がめざしていた夢を売る商売とはほど遠かった」(同自伝)と述懐している。
転機は71年に石ノ森章太郎原作「原始少年リュウ」の主題歌「原始少年リュウが行く」で、アニメソングの第一歩を飾ったことだった。
当時、日本コロムビア学芸部のディレクターだった木村英俊は、アニメソング(当時の呼称はテレビまんが主題歌)の男性歌手を探していた。番組への出演姿を見かけ、存在を思い出した水木に、連絡を取った。水木は歌手を諦め、作曲家転身を目指していた。後日、水木が持ち込んだ曲を聴いた木村は「残念だけれど、面白くないね」「はっきり言うけど、可能性はまったくないね」と指摘。肩を落とす水木に「そんなことを考えるよりも、貴方は歌手を目指していたのだろう。初志貫徹だよ。アニメ歌手になってみる気はないかい。俺が責任を持つから」(「THEアニメ・ソング―ヒットはこうして作られた」角川書店、1999年)と誘った。〝帝王〟誕生の瞬間だった。
水木さんは「マジンガーZ」「バビル2世」「超電磁ロボ コン・バトラーV」「ゲッターロボ」「宇宙海賊キャプテンハーロック」「プロゴルファー猿」など多数の主題歌を担当。日本コロムビア以外では〝山本一郎〟名義で「行け!ゴッドマン」、〝松本茂行〟名義で「侍ジャイアンツ」を歌った。ささきいさお、子門真人と「アニメ歌手御三家」を形成。堀江美都子らとともに時代を築いた。
水木さんの〝クセのなさ〟を証言するように、自伝では、作詞家の丘灯至夫が次のような水木評を寄せている。
「水木君は歌謡曲をうたうんだ、ってことで入ってきて、私も『愛の世界』ってのを書いたけれど、はっきりいって歌謡曲の歌い手ではなかった。歌謡曲をうたっても、聴いただけで『この声はあの人だ』とすぐわかるようなものがなかった。結局、歌謡曲には向かなかったんでしょう」
ただし〝クセのなさ〟は決してマイナス要素ばかりではない。剣持は「水木さんも自身の声を無個性と認めていましたが、『無個性』は裏を返せば『変幻自在』とも言えます。芸名のように、水のごとくどんなバリエーションの曲でも、命の限り歌いこなされたのではないでしょうか」と、偉大な功績を残したアニソン歌手を悼んだ。