「鎌倉殿」2つの壮絶な運命 20歳で早逝した大姫、頼朝の源範頼への激怒は”言いがかり”か? 識者が説明

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(NORIMA/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第24回「変わらぬ人」では、源範頼と大姫という2人の男女が死んでいきました。

 大姫は、夫の源(木曽)義高(木曽義仲の子)を父・源頼朝によって殺害されて以降、悲しみにくれ、病がちとなっていました。病平癒の祈祷のお陰か、体調が回復する事もありましたが、また悪化したりの繰り返し。『吾妻鏡』には、大姫が夜も眠られず、食べ物をとることもできず、更には精神的にも不安定な状態にあった様が描かれています。

 不安定な状況にあるのは「邪気」のせいにされ、祈祷が繰り返されますが、1197年7月に、回復することなく、この世を去ります。20歳という若さでした。ドラマにあったように天皇への入内の話もありましたが、それが果たされる事はありませんでした。

 さて、一方の源範頼は、義経と同じ頼朝の異母弟として、木曽義仲や平家方討伐戦などで尽力してきました。その範頼が1193年8月、突如、失脚するのです。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』の1193年8月3日の項目に「範頼が頼朝に起請文(誓約書)を書いて、提出した」とあります。なぜか?範頼が叛逆を企てているとの噂を、頼朝が聞いて本人(範頼)に尋ねたからだというのです。謀反疑惑を否定するため、範頼は起請文を提出したのでした。

 その起請文には「自分は頼朝様の代官として、戦場に向かい、朝敵を討ってきました。謀反心などありません。頼朝様の御子孫の代になっても忠節を尽くすでしょう。それなのに今更、謀反の疑いをかけられることに困惑しております。今もそしてこれからも不忠の想いは持ちません。私の子孫にもよく戒めておきます。もし、その誓いを破ったならば、神罰が下るでしょう」と書いてあったと言います。これは、範頼版「腰越状」(腰越状は義経が頼朝に無実を訴えた書状)というべきものでしょう。

 頼朝も納得するかと思いきや、何と激怒します。「起請文に源範頼と署名している。これは範頼が源氏の一族と思っているからであろう。自惚れも甚だしい。この書状に起請文の価値はない。そう使者に伝えろ」と怒ったというのです。確かに起請文には「三河守 源範頼」とありますが、範頼は頼朝と同じ源義朝の子なのですから、源と書いても何の問題もないでしょう。

 頼朝の激怒理由が本当かは分かりませんが、本当だとすると、言いがかりに近いものがあります。何でも良いから、とにかく、範頼を追い詰めたい、失脚させたいという頼朝の思惑が透けて見えます。

 では、なぜ頼朝は範頼を失脚させようとしたのか?前述の頼朝の言葉から考えてみるに、範頼が邪魔になったのでしょう。なぜ?頼朝は範頼を源氏の一門だと認めたくないようです。源氏の一門ならば、自らの後を襲うこともできる。しかし、頼朝は後継者に我が子・頼家を考えていた。その邪魔になるものは(今のうちに消してしまおう)との頼朝の想いが、『吾妻鏡』の頼朝の言動からは垣間見えるような気がします。

 有名な曾我兄弟の仇討ち事件は、頼朝の命を狙ったものであり、その背後に範頼がいたのではとの疑惑もありますが、事件と範頼との関連は不明確であり、安易な結び付けには注意しなければいけません。結局、範頼は8月17日に伊豆に流罪となります。

 その後、動向は不明ですが、殺害されたとの説もあります。配流の翌日には、範頼の家人たちが、武器を用意し、館に立て篭もるとの風聞があり、軍勢が派遣され、討伐しています。そして8月20日には、曾我祐成(曾我兄弟の兄の方)と同腹の「京小次郎」という者が、範頼に連座したとして、処刑されています。範頼配流によって不穏な動きをしようとした者(もしくはすると想定された者)を、この機に一掃しようとしたのでしょうか。

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