大橋照子さん45年続くリスナーとの交流 伝説のラジオ番組「ヤロメロ」「ラジアメ」同窓会

杉田 康人 杉田 康人
大橋照子さん(左)と放送作家の鶴間政行さん
大橋照子さん(左)と放送作家の鶴間政行さん

 フリーアナウンサーの大橋照子さん(71)が、かつて担当していた人気ラジオ番組「ヤロウどもメロウどもOh!」(日本短波放送=現在のラジオNIKKEI、通称・ヤロメロ)と「ラジオはアメリカン」(TBSラジオ、同・ラジアメ)を聴いていたファンを集めた同窓会イベント「ヤロメロ45周年&ラジアメ41周年同窓会」が4月29日、都内で行われ、80人が参加した。

 大橋さんは、日本短波放送の局アナだった1977年(昭和52)からヤロメロを担当。当時の国民的人気アイドルグループ・キャンディーズとの親交の深さから〝4人目のキャンディーズ〟とも呼ばれ、同局の公開放送用スタジオから放送された午後5時スタートの生番組は、爆発的ブームになった。レコードや単行本が出版され、最盛期は1日100万人が聴いていたという伝説が残る。

 79年(昭和54)1月31日のデイリースポーツは、芸能面で「〝短波のチェリー〟大橋照子がレコード作り」という見出しで、大橋さんのレコード発売を報じている。記事は「一躍親衛隊付きのスターアナになった。愛称はチェリー。全国に百四十を超えるファンクラブ組織がある」と伝えた。

 結婚を機にフリーになった後も番組を担当。81年(昭和56)にはTBSラジオで日曜深夜の30分番組・ラジアメがスタートした。夫の米国転勤に伴い渡米し、85年(昭和60)にすべての番組を降板。ラジアメは担当DJが交代、ヤロメロは同年で終了したが、40年近く経った今でも当時のリスナーとの交流が続いている。

 おおらかだった時代なのか、東京・虎ノ門にあった日本短波放送の公開放送用スタジオは当時、誰でも入ることができた。丸テーブルに座り、中高生や大学生に囲まれながらヤロメロを放送していた大橋さん。〝会いにいける芸能人〟のはしりだった。ファン十数人が都内にあった大橋さんの自宅から局まで、さらに放送終了後帰宅まで同行する姿を週刊誌は「親衛隊」と表現した。

 宮城県から同窓会イベントにかけつけた医師の片寄大さん(62)は東北大の学生時代、登山中につけたラジオで偶然ヤロメロを知り、数週間後に大学の学園祭に招かれた大橋さんと出会った。「精神的に不安だった若い頃、悩みにも真摯に答えていただいた。優しいお姉さんで、あこがれの人だった照子さんは変わらない。年がたっても声やリアクションに違和感がなく、聴いていた我々だけ年をとっている感じ」と魅力を語る。リスナー同士のつながりも密だという。

 90年に帰国した大橋さんは現在、NPO法人「日本スピーチ・話し方協会」の代表を務め、テレビ番組のナレーションや電車・バスなどの車内放送も手がけるほか、ウェブ配信番組「ドキドキラジオ」も担当。5年おきにヤロメロの同窓会を開いていたが、2019年からラジアメの同窓会と合体。1年ごとにイベントを行っている。

 どうしても銀行に行く時間がなかった大橋さんが〝親衛隊〟に自身のキャッシュカードを渡し、暗証番号を教えATMから現金を引き出すよう頼んだという逸話がある。「子どもを預けて見てもらったこともあった。信用していたし、みんなのことが大好きだった。私は恋人だと思っていた。女子アナで私だけ、恋人がいなかったんですよ」と振り返る。

 日本短波放送の向かいにあったアメリカ大使館を警備する警察官をモデルガンで撃つまねをし、補導されたリスナーの身元引受人になったことも。「よくみんなにごちそうしていた。立派になったみんなを見るのが楽しみ」と目を細める。この日の同窓会イベントは、放送業界などに進んだ当時のリスナーが手弁当で運営・音響などを担当した。

 なぜか大橋さんの自宅さえも知っていたファンだったが、プライベートに踏み込むことはなかった。ラジアメの構成を担当していた放送作家の鶴間政行さん(67)は「波長が合う人たちが集まっているから、絆が深い。ラジアメは日曜深夜の番組だったから、夜の街灯に集まってくる虫のようだった。でも、虫が近づきすぎると焼けちゃう。さじ加減というか、大橋さんは大橋さんのステージがある」と語る。

 85年の渡米時には、惜別の意を込めた「大橋照子と仲間たち」という本が記念出版された。当時のファンは60~70代に。「みんな定年を迎えて時間もあるし、部活とかもできるかもしれない。でも、心配は心配なんですよ」と、闘病するリスナーを地方まで見舞ったり、葬儀に出ることもあるという。「大事にしたいし、一生付き合っていきたい」と話す大橋さん。奇跡的な関係を続ける〝大橋照子と仲間たち〟の交流は、これからも続く。

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