「鎌倉殿の13人」すこぶる好戦的で“危険”な義経 史実では異常性を示すもの見られず 歴史学者が説明

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
写真はイメージです(sunasuna3rd/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回目「伝説の幕開け」が放送されました。番組のホームページには、あらすじのところで、次のように書いています。「御家人たちをまとめ上げた源頼朝は、弟・範頼を総大将、梶原景時を軍奉行とした本軍を派兵。八重に見送られた義時も従軍し先発した義経と合流する」と。

  確かに、頼朝は異母弟の範頼と義経を西国に派遣します。先発隊として義経が派遣されますが、それが寿永二年(1183)の10月頃。しかし、義経の軍勢は500騎ほどであり、当初は合戦を目的とせず、後白河法皇への貢物を持参する使者とされました。頼朝自らの出陣も噂されていましたが、それは実現しませんでした。

  飢饉により、兵糧が足りないということもありましたが、奥州の藤原秀衡が木曽義仲と組んだという噂もあり、うかつに鎌倉を離れることができなかったと思われます。頼朝は、上洛に反対していた大豪族・上総広常を殺したが、広常の他にも上洛に反対する御家人もいたと推測されるので、そうした意味でも、自らが鎌倉を離れるわけにはいかなかったのでしょう。

  ちなみに、先週の上総広常の殺害について、追加で触れておくと、頼朝に殺されたのは広常だけではなく、広常の子・能常も殺されています。これにより、上総介本家は滅亡。しかし、その一方で広常の弟らは罪を許されています。また、広常に仕えていた家臣たちも、処罰されてはいません。

 広常親子二人が犠牲になった感がありますが、頼朝としては広常の家臣や親族までも討つつもりは毛頭なかったでしょう。広常は2万の大軍を動かせると言われていた武将です。その配下の者まで討つとなると大変ですし、それこそ大規模な反乱が起きて、頼朝の方がやられてしまう可能性もあったでしょう。広常殺害後、彼の家臣らは、千葉常胤、つまり千葉氏の支配下に組み込まれます。そうしたことを考えた時、広常殺害で最も利益を得たのは、千葉氏ということになります。そのようなことで、もしかしたら、千葉常胤が頼朝と組んで、広常を陥れたのではと勘繰りたくもなりますが、それを示す史料はなく、私の想像の域を出ません。

  上総広常の軍勢は、広常の同意がなければ、頼朝が勝手に動かすことはできなかったと思われます。頼朝が広常を殺害した裏には、この軍勢を自らの意のままとしたい、傘下にしたいという願望もあったのかもしれません。

 頼朝は範頼や義経などに軍勢を率いさせ、西国へ派遣していますが、しかし、前述したように兵糧問題などもありましたので、その軍勢は数千騎程度だったでしょう。ところが、木曽義仲は、後白河法皇と対決し監禁するなどの強硬な態度をとったため、離反する者も続出。義経方に付くことになったので、勢いは増し、ついには宇治川の戦いで義仲軍を打ち破り、最終的には義仲は近江国粟津(滋賀県大津市)で戦死することになるのです。

 また、北条義時は木曽義仲討伐には従軍していません。義時が源範頼らと共に鎌倉から出陣するのは、1184年の8月。義仲が死に、既に一ノ谷の合戦(1184年2月)が終わった後です。平家方討伐のため西国に向かう義時。義時は、頼朝挙兵の際に戦に加わっていたと思われますが、今回の出陣はそれ以来と言えるでしょう。義時には、それまでにも目立った武功はありませんでした。

 それにしても、菅田将暉が演じる義経は第16回を見ても、ある意味サイコパスにも見え、すこぶる好戦的な人物にも思えますね。古典『平家物語』に登場する義経は、確かにそうした一面を覗かせます。暴風雨で船出を渋る船頭に、「船出しないと、矢で射殺すぞ」と脅したり、「戦には時には退却する事も必要」と主張する梶原景時に対し「戦はただひたすら進み、勝つ事こそ良いのだ」と言い放つ記述もあります。

 しかし、これは文学作品に描かれた"義経像"です。史実の中の義経が、ここまでの「異常性格」だったかを示すものはないのです。

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