鎌倉殿と呪術の関係 北条政子の出産で御験者が果たしたびっくりする役割とは

よろず~ニュース編集部 よろず~ニュース編集部
写真はイメージです(ヴィダル/stock.adobe.com)
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 平安時代末から鎌倉時代のターニングポイントには、必ずといってよいほど、陰陽師が関与していた。呪術は「呪(のろ)いの法」と間違われやすいが、実際は「呪(まじな)いの法」。特に陰陽道は平安貴族の日常になくてはならない技能と化していたため、呪術=陰陽道を操ることのできる陰陽師は大忙しだった。陰陽師の活躍の場は洛中に限らず、やがて鎌倉からもお呼びがかかり、そのうち常駐のスタッフを置くまでになった。島崎晋の「鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史」(ワニブックス)では、鎌倉幕府が編さんした歴史書「吾妻鏡」をもとにしながら、学校の教科書には出てこない歴史の綾、陰陽師に焦点が当てられている。

 古代から中世はじめの日本社会では、死や人体の損傷に加え、月経や妊娠、流産、出産も穢(けがれ)に含まれた。北条政子が源頼朝の夫人、御台所として臨んだ初めての出産は、東国では前例のない大がかりなものとなった。1182年7月12 日、政子は比企能員の屋敷に移される。比企家は頼朝を守護すべく一大閨閥を築いており、頼朝のためならば、どれだけ穢を被っても構わない覚悟のある家だった。

 8月11 日、政子が産気づくと、頼朝も比企能員の屋敷に渡った。穢を受けるわけにいかないので、別室で待機したはずだが、ただ待つのではなく、祈祷のため奉幣(ほうべい)の使いを伊豆・箱根の両所権現や近国の神社へ遣わした。相模国の一宮(現在の寒川神社)、同国の三浦十二天(現在の十二所神社)、武蔵国の六所宮(現在の大國魂神社)、常陸国の鹿島社、上総国の一宮(現在の玉前神社)、下総国の香取社、安房国の東条神館(現在の神明神社)、同国の洲崎社で、いずれも一宮かそれに準じる神社。武神を主祭神とする鹿島社と香取社は不適切なようにも思えるが、生まれてくるのが男児であれば頼朝の後継者になり、武神に男児の誕生を願うのは違和感のないことだった。

 祈祷の甲斐があったのか、8月12 日酉の刻(午後5~7時)、政子は元気な男児を出産。幼名は万寿(のちの頼家)。比企尼の娘で河越重頼の妻が最初の乳を与えたとある。

 同じく「吾妻鏡」の同日条には、験者として専光房阿闍梨の良暹と大法師の観修、鳴弦役として師岡兵衛尉重経、大庭平太景義、多々良権守貞義の3人、引目役として上総介広常が立ち会ったとあるが、ここにある「験者」とは加持祈祷を行い、霊験をあらわす行者のことで、鳴弦役は悪魔や妖気・穢を払うため弓弦を弾き鳴らす役、引目役は同じく蟇目矢を射る役をいう。蟇目の矢はヒキガエルの鳴き声に似た異様な音響を発し、それと弓を揺らす音には魔物を退散させる効果があると信じられていた。陰陽道より古く、古神道に由来すると思われるが、鎌倉の人員だけでは不安だったようで、頼朝は天台寺門宗の総本山である園城寺の円暁に来てくれるよう依頼している。母が源為義の娘である円暁は、頼朝の従兄弟にあたる。

 円暁は途中で伊勢大神宮に立ち寄り、参籠をしたため、肝心の出産には間に合わず、挨拶だけして都に戻ったが、翌年には再び頼朝の招きを受け、鶴岡八幡宮寺若宮の初代別当として鎌倉に下ることになる。

 「鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史」は11月24日に発売予定。「頼朝伝説を伝える場所が社寺ばかりなのはどうしてか?」「色褪せることなき平安のスーパーヒーロー安倍晴明の威光」「治承・寿永の内乱の裏で進行した呪術合戦」「頼朝も恐れた崇徳上皇という日本最大の怨霊」「義経の捜索にも呪術を駆使」「平氏と奥州藤原氏の怨霊化を阻止した秘策」「怨霊となった梶原景時、一族を鎮める」「時代に逆行!?急増する陰陽道の祭祀」などがテーマに挙がっている。来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は三谷幸喜が脚本を手がけ、平安時代末から鎌倉時代初めを舞台に、小栗旬演じる北条義時を中心に、大泉洋演じる源頼朝、小池栄子演じる北条政子、中村獅童演じる梶原景時、佐藤二朗演じる比企能員などが描かれる話題作。その背景を知ることができる一冊になっている。

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